ヘンリー2世(在位 1154〜1189年)は、プランタジネット朝の開祖であり、中世イングランドにおける強力な王権の確立者として知られます。彼はノルマンディー公やアンジュー伯など広大な領土を継承し、王妃アリエノール・ダキテーヌとの結婚によってアキテーヌ公国をも支配下に収めました。このため、彼の領土は「アンジュー帝国」と呼ばれ、イングランド王でありながらフランス西部に広大な領地を持つという特異な地位を占めました。
その治世の大きな特徴は、法制度の整備です。ヘンリー2世は陪審制度や巡回裁判制度を導入し、慣習法を体系化することで「コモン・ロー」の基礎を築きました。これは後のイングランド法、さらにはアメリカ法にもつながる重要な遺産となりました。
法の統一を目指してコモン・ローを整備
巡回裁判官を派遣し、全国で裁判を行わせた
陪審制度を導入し、市民が司法に参加できる仕組みを作った
しかし、彼の治世は常に順風満帆ではありませんでした。最大の対立はカンタベリー大司教トマス・ベケットとの間に起こりました。王権強化の一環として聖職者を王の裁判権に従わせようとしたヘンリー2世に対し、ベケットは教会の独立を守ろうと抵抗しました。この対立は頂点に達し、1170年にベケットが暗殺される事件へとつながります。この事件はヨーロッパ全体に衝撃を与え、結果として王権の強化は一時的に後退を余儀なくされました。
また、彼の晩年は息子たちとの争いに悩まされました。長男ヘンリー若王をはじめ、リチャードやジョンといった息子たちはしばしば反乱を起こし、ヘンリー2世は彼らとの戦いに多くのエネルギーを費やしました。
1170年、カンタベリー大司教トマス・ベケットが暗殺され、教皇や信徒から非難を浴びた。ヘンリー2世はカンタベリー大聖堂での屈辱的な謝罪を強いられた。
1173年以降、王妃アリエノールの支援を受けた息子たちが度々反乱。王位継承や領地配分をめぐる争いが続いた。
総じて、ヘンリー2世は法律と統治制度に革新をもたらし、イングランド王権の強固な基盤を築いた王として高く評価されています。その一方で、聖職者との対立や家族内の内乱という試練も抱え、彼の治世は中世王権の可能性と限界を象徴するものとなりました。