プランタジネット朝のジョン王:フランス領土の喪失とマグナ・カルタ

プランタジネット朝のジョン王(在位1199-1216年)はヘンリー2世の四男として生まれ、当初は相続する領地がなかったため「欠地王」と呼ばれました。兄リチャード1世(獅子心王)の死後、甥のアルテュールとの王位継承争いを制して1199年に王位に就きました。

リチャード1世の死去(1199年)

甥アルテュール・ド・ブルターニュとの継承権争い

イングランド王位継承(1199年4月6日)

フランス領の統治権確立

フランス領土の大量喪失

ジョン王の治世最大の特徴は、大陸領土の大幅な喪失でした。父ヘンリー2世が築き上げたアンジュー帝国の版図は、ジョンの時代に著しく縮小することになります。

継承時の領土(1199年)

イングランド、ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、トゥーレーヌ、ポワトゥー、アキテーヌを含む広大な領域

喪失後の領土(1206年頃)

イングランドとアイルランドの一部、ガスコーニュの一部のみが残存

特に1204年のノルマンディー公国の喪失は決定的で、これによりジョンは「欠地王」の名にふさわしい状況となりました。フランス王フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト)の巧妙な外交と軍事戦略により、ジョンは次々と大陸の拠点を失っていきました。

教皇との対立とインターディクト

ジョンの統治で特筆すべきもう一つの問題は、ローマ教皇インノケンティウス3世との激しい対立でした。カンタベリー大司教の任命をめぐる争いが発端となり、深刻な宗教的危機を招きました。

1205
カンタベリー大司教選出問題

大聖堂参事会と国王が異なる候補者を推薦し、教皇が第三の候補者スティーヴン・ラングトンを任命。

1208
イングランドへのインターディクト発動

教皇がイングランド全土に聖務停止令を発動。結婚式と葬式以外の宗教的儀式が禁止される。

1209
ジョン王の破門

教皇がジョン個人を破門。王としての正統性に深刻な打撃。

1213
教皇への屈服

ジョンが教皇に屈服し、イングランドを教皇の封土として献上することで和解。

このインターディクトの期間中、イングランドの宗教生活は麻痺状態となり、ジョンの統治への不満が高まりました。

マグナ・カルタの制定

ジョンの専制的な統治と重税政策に対する貴族の不満は、ついに1215年のマグナ・カルタ(大憲章)制定へと結実しました。

重税政策の背景

フランスでの軍事作戦費用、教皇への賠償金、十字軍税などで国庫が逼迫し、前例のない高額な税を課税。

貴族の反乱

北部貴族を中心とした「神と聖なる教会の軍隊」を名乗る反乱軍が形成され、ロンドンを占拠。

ラニーミードでの交渉

1215年6月15日、テムズ川畔のラニーミードでジョン王と貴族が対峙し、マグナ・カルタに調印。

憲章の意義

王権の制限、法の支配、裁判を受ける権利など、後の立憲政治の基礎となる原則を確立。

軍事的失敗と外交政策

ジョンの治世は軍事的敗北の連続でもありました。大陸領土奪回を目指した複数の軍事作戦はいずれも失敗に終わり、莫大な費用だけが残りました。

ブヴィーヌの戦い準備(1214年)

神聖ローマ皇帝オットー4世との同盟

フィリップ2世の勝利

ジョンの完全な孤立

1214年のブヴィーヌの戦いでは、ジョンの同盟軍が フィリップ2世率いるフランス軍に決定的敗北を喫し、大陸領土奪回の希望は完全に断たれました。

晩年と死

マグナ・カルタ締結後も、ジョンは憲章の条項を無視し続け、教皇インノケンティウス3世にマグナ・カルタの無効を宣言させました。これにより第一次バロン戦争が勃発し、反乱貴族はフランス王太子ルイ(後のルイ8世)を招聘してジョンに対抗しました。

ジョン王の最期

1216年10月19日、ニューアーク城で赤痢により急死。49歳の生涯を閉じた

王位継承

9歳の息子ヘンリーが ヘンリー3世として即位し、摂政ウィリアム・マーシャルの下で統治を開始