イギリス(イングランド)は、フランスなどに先がけて絶対王政から責任内閣制に移った。この間、イングランドはピューリタン革命などで政治的に混乱し、実質的な支配者は次々に変わった。
概要
- ピューリタン革命
- オリバー・クロムウェルがチャールズ1世を処刑
- オリバー・クロムウェルの独裁政権がイングランドを支配する
- オリバー・クロムウェル死後、チャールズ2世が王になる
- チャールズ2世の跡継ぎ問題でトーリー党とホイッグ党ができる
- チャールズ2世の後、ジェームズ2世が王になる
- ジェームズ2世、追放される
- ウィリアム3世とメアリ女王がイングランド王になる(絶対王政終わり)
- アンが王になり、イングランドとスコットランドがグレートブリテン王国(イギリス)になる
- ハノーヴァー朝のジョージ1世が王になり、責任内閣制になる
年表
年 | 出来事 |
---|---|
1642 | ピューリタン革命が始まる |
1645 | ネイズビーの戦い |
1649 | チャールズ1世、処刑される オリバー・クロムウェルの独裁政権(コモンウェルス) |
1658 | オリバー・クロムウェル、死去 |
1660 | チャールズ2世、イングランド王になる |
1685 | ジェームズ2世、イングランド王になる |
1688 | ジェームズ2世、追放される |
1689 | ウィリアム3世とメアリ2世による立憲王政開始 |
1702 | アン、イングランド女王になる |
1707 | アン、スコットランドを合同してグレートブリテン王国をつくる |
1714 | ジョージ1世、イギリス王になる |
1721 | ウォルポール内閣発足 |
ピューリタン革命
ピューリタンとはイギリスのプロテスタントのこと。ピューリタン革命は、チャールズ1世と議会派の争いをいう。
チャールズ1世は国教(カトリック)を強制し、ピューリタン(プロテスタント)を認めなかった。この強硬な姿勢がイングランドを内戦状態に導いた。議会派の中から出てきたピューリタンのオリバー・クロムウェルは、ネイズビーの戦いなどで勝利し、チャールズ1世を追放した。
オリバー・クロムウェル
イギリスの歴史は、オリバー・クロムウェルがチャールズ1世から政権を奪ってから大きく変わった。クロムウェルの政権は軍事的な独裁政権であり、短命に終わった。これは、クロムウェルが厳格なピューリタニズムによって娯楽を禁じるといった政策を行い、民衆の反感を買ったことも一因だった。
オリバー・クロムウェルは政治的な混乱を収める目的でアイルランドを征服したが、この戦争によってアイルランド人の多くが死亡した。この行為によってオリバー・クロムウェルはしばしば冷酷な独裁者と認識されている。
チャールズ2世
クロムウェル死後、イングランドはチャールズ1世の子、チャールズ2世を王にした。しかしチャールズ2世はカトリックであり、反カトリックと対立した。
ジェームズ2世
チャールズ2世の後、後継者問題が起きる。ヨーク公ジェームズ派が有力視された後、議会はジェームズ派(トーリー党)と反対派(ホイッグ党)に分かれるが、1685年、ヨーク公ジェームズはジェームズ2世として王になった。
トーリー党とホイッグ党は、もともとチャールズ2世の後継者をめぐって分かれた政治的グループだが、ジェームズがジェームズ2世として即位した後も、イングランド議会を構成する重要な派閥になった。現在のイギリスの主要な政党である保守党と自由党は、それぞれトーリー党とホイッグ党を由来とする。
トーリー党 → 保守党
ホイッグ党 → 自由党
ウィリアム3世
1688年、ジェームズ2世はイングランドから追放された。かわりにウィリアム3世とメアリ2世がイングランドを共同で統治した。
この即位にあたって、二人は議会の「権利の宣言」を認めた。その後、「権利の宣言」は「権利章典」として正式に発布され、立憲王政が始まり、イングランドの絶対王政は終わった。
その後、国民の財産権が明文化されるなどして、ヨーロッパで先進的な政治が進んだ。
アン
ウィリアム3世とメアリ2世の後、アンが女王になった。アンはスコットランド王でもあったため、イングランドとスコットランドは合同してグレートブリテン王国となった(1707)。以降、グレートブリテン王国をイギリスと呼ぶ。
ハノーヴァー朝
アン死後、スチュアート朝は断絶した。かわりにハノーヴァー朝のジョージ1世がイギリス王になる。ジョージ1世は英語を母国語とせず、ヨーロッパ大陸に関心を持っていた。そのためジョージ1世は政治の多くを内閣(ウォルポール内閣、1721~1742)に任せるようになった。こうしてイギリスに責任内閣制が生まれた。