スコットランド王がイングランド王を兼ね、王冠連合が成立。
ステュアート朝は、1603年から1714年にかけてイングランド、スコットランド、アイルランドを支配した王朝です。スコットランドの王家に由来し、エリザベス1世が後継者を残さず没した1603年、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王位を継ぎ、ジェームズ1世として即位しました。これにより、両国の王冠連合が成立し、ブリテン諸島全体を統合する流れが始まりました。
王朝の歩み
専制的な姿勢により議会と激しく対立し、清教徒革命の要因となった。
内戦で議会派が勝利し、イングランド共和国が樹立された。
チャールズ2世が即位し、ステュアート朝が再興した。
カトリックのジェームズ2世が追放され、ウィリアム3世とメアリー2世が共同で即位。
後継がなく、王位はハノーヴァー朝へ移った。
王権と議会の対立
ステュアート朝の大きな特徴は、王権と議会の激しい衝突にありました。国王は王権神授説を掲げて強権的な統治を目指したのに対し、議会や清教徒勢力は権利の拡大を求めました。
王権強化を図るジェームズ1世・チャールズ1世
議会や市民の権利を主張するピューリタン勢力
この対立は清教徒革命(イングランド内戦)へと発展し、ついには王の処刑と共和政の実現に至りました。ヨーロッパにおいて王を処刑して共和制を樹立したことは大きな衝撃を与え、政治史上の画期といえます。
名誉革命と立憲主義
1688年の名誉革命では、国王ジェームズ2世が追放され、代わってウィリアム3世とメアリー2世が即位しました。このとき権利章典が制定され、近代的な立憲君主制の基盤が築かれました。
課税や常備軍の維持は議会の同意を必要とするなど、王権を厳しく制限した。
国教会の優位は維持されたが、非国教徒に対する一定の信仰の自由が認められた。
終焉と遺産
最後の君主アン女王が1714年に死去した後、ステュアート朝は断絶し、王位はドイツ出身のハノーヴァー家に移りました。しかし、この時代に築かれた立憲主義や議会政治の枠組みは、その後のイギリス政治を方向づけ、近代的な議会制民主主義の原型として大きな影響を残しました。