プロイセン軍がハノーファー、ヘッセン=カッセル、ザクセンに侵攻を開始。
普墺戦争(ふおうせんそう、1866年)は、プロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった、ドイツ統一をめぐる決定的な戦争です。この戦争により、ドイツにおける覇権がオーストリアからプロイセンへと移り、近代ドイツ統一への道筋が決定的になりました。
戦争の背景
19世紀中期のドイツ地域は、神聖ローマ帝国の解体後、ドイツ連邦という緩やかな連合体制のもとにありました。しかし、工業化の進展と民族意識の高まりにより、統一への機運が高まっていました。
オーストリアを含む全ドイツ地域の統一を目指し、伝統的な多民族帝国として緩やかな連邦制を志向
オーストリアを除くドイツ諸邦の統一を目指し、プロイセン主導の強力な中央集権国家の建設を志向
戦争の直接的原因
直接的な火種となったのは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題でした。1864年の第二次シュレスヴィヒ戦争でプロイセンとオーストリアが共同でデンマークから両公国を獲得した後、その統治権をめぐって対立が深刻化しました。
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題の発生
プロイセンとオーストリアの共同統治合意
統治権をめぐる両国の対立激化
外交交渉の決裂と戦争準備
ビスマルク首相は巧妙な外交戦略により、フランスとロシアの中立を確保し、イタリアとの軍事同盟を締結してオーストリアを孤立させました。
主要な戦闘と戦争の経過
戦争は1866年6月に開始され、わずか7週間で決着がつきました。この短期間での決着から「七週間戦争」とも呼ばれます。
決定的な会戦でプロイセン軍がオーストリア軍を撃破。新式の後装式銃と鉄道を活用した機動戦術が勝利をもたらした。
オーストリアがプロイセンの勝利を認め、事実上の降伏。
正式な講和条約の締結により戦争が終結。
プロイセンの軍事的優位性
プロイセンの勝利は軍事技術と戦術の近代化によるものでした。
ドライゼ銃という後装式ライフル銃を全軍に装備し、装填速度でオーストリア軍の前装式銃を圧倒した。
発達した鉄道網を利用して大軍を迅速に移動させ、各個撃破戦術を可能にした。
モルトケ参謀総長のもとで確立された近代的な参謀本部システムにより、効率的な作戦指導を実現した。
普遍的兵役義務による大規模な国民軍を編成し、オーストリアの職業軍人中心の軍制を数的に圧倒した。
戦争の結果と影響
プラハ条約により、ドイツ連邦は解体され、新たな政治秩序が形成されました。
オーストリアはドイツ連邦からの脱退を余儀なくされ、以後ドイツ統一過程から排除されることになりました。
1815年のウィーン会議で成立した、オーストリア主導の緩やかなドイツ諸邦連合体制。
プロイセンは戦争により獲得した領土と影響力を基盤として、1867年に北ドイツ連邦を結成しました。この連邦は事実上のプロイセン主導国家であり、後のドイツ帝国の原型となりました。
| 領土変更 | ハノーファー、ヘッセン=カッセル、ナッサウ、フランクフルトをプロイセンが併合 |
| 政治体制 | オーストリア主導のドイツ連邦からプロイセン主導の北ドイツ連邦へ |
| 軍事同盟 | 南ドイツ諸邦とプロイセンの秘密軍事同盟締結 |
| 外交関係 | オーストリア=ハンガリー二重帝国成立(1867年)への道筋 |
| 国際影響 | ヨーロッパ勢力均衡の変化、フランスの孤立化進行 |
ヨーロッパ国際政治への影響
普墺戦争は単なる二国間戦争を超えて、ヨーロッパ全体の勢力バランスを変化させました。オーストリアの敗北により、同国は東欧・バルカン政策に重点を移し、1867年にハンガリーとの妥協によりオーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させました。
一方、プロイセンの勝利はフランスに大きな脅威を与え、ナポレオン3世は「ライン川の補償」を求めるなど、対独政策の見直しを迫られました。この緊張関係は4年後の普仏戦争へとつながっていきます。
普墺戦争の意義は、近世的な多民族帝国システムから近代的な民族国家システムへの転換点となったことにあります。オーストリアの「ドイツからの排除」は、後の20世紀初頭まで続くドイツ・オーストリア関係の基調を決定し、中欧政治の構造的変化をもたらしました。この戦争により、ビスマルクの「血と鉄」政策の有効性が実証され、軍事力による統一という手法が正当化されることとなったのです。