セルジューク朝が東ローマ帝国を破り、アナトリアへの進出を決定づけた。
ルーム・セルジューク朝は、11世紀末から13世紀半ばにかけてアナトリア(現在のトルコ)に存在したトルコ系イスラム王朝です。セルジューク朝の一支族が、1071年のマンサイクルートの戦いで東ローマ帝国を破った後、アナトリアに根を下ろして建国しました。「ルーム」とは「ローマ」を意味し、東ローマ帝国の旧領を支配したことから名付けられました。
建国と発展
ルーム・セルジューク朝の基盤は、初代スルタン・クルトゥルムシュの子カイ・クスル・アルプが築き、首都をニカイア(イズニク)に置きました。その後、首都はコンヤへ移され、政治・文化の中心となります。セルジューク朝は、イラン文化やイスラム法の影響を受けながら、トルコ人遊牧民の移住を進め、アナトリアにおけるイスラム化・トルコ化を大きく推し進めました。
カイ・クスル・アルプがアナトリア西部に王朝を樹立。首都はニカイア。
首都をコンヤへ移し、イスラム文化の中心として発展。ペルシア文化やスーフィー思想も広がった。
モンゴル帝国に大敗。以後、イルハン朝の支配下に入り自治を失う。
政治と文化
ルーム・セルジューク朝は中央集権的な官僚制度を整え、都市を中心に経済を発展させました。隊商宿(キャラバンサライ)が整備され、シルクロード交易の要地として栄えました。また、コンヤでは神秘主義詩人ルーミーが活躍し、メヴレヴィー教団(旋舞教団)が成立するなど、宗教文化的にも重要な役割を果たしました。
隊商宿や市場が整備され、地中海と中央アジアを結ぶ交易ルートの要衝となった。
モスクやキャラバンサライ、マドラサ(神学校)が建設され、セルジューク様式の石造建築が花開いた。
スーフィズム(イスラム神秘主義)が広まり、ルーミーらの活動により後世に影響を与えた。
衰退と影響
1243年のモンゴル軍との戦いに敗れて以降、ルーム・セルジューク朝はイルハン朝の従属政権となり、次第に分裂しました。その後、アナトリア各地にベイリクと呼ばれる小政権が乱立し、その中からオスマン朝が台頭していきます。したがって、ルーム・セルジューク朝はトルコ人のアナトリア定住とオスマン帝国の前史を形作った重要な存在といえます。
ルーム・セルジューク朝はわずか2世紀足らずの歴史ながら、アナトリアの文化的基盤を形成し、後世のトルコ・イスラム社会に大きな遺産を残しました。