出生時の難産により左腕に障害を負う。祖母はイギリス女王ヴィクトリア。
ヴィルヘルム2世(1859-1941)は、ドイツ帝国最後の皇帝として1888年から1918年まで在位し、第一次世界大戦の勃発と敗戦、そしてドイツ帝政の終焉という激動の時代を象徴する人物です。
生い立ちと即位への道のり
ヴィルヘルム2世は、プロイセン皇太子フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ3世)とイギリス女王ヴィクトリアの長女ヴィクトリア・アデレード・メアリ・ルイーゼの間に生まれました。出生時の難産により左腕に障害を負い、これが彼の性格形成に大きな影響を与えたとされています。
祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世の相次ぐ死去により、わずか29歳で皇帝に即位。
「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクを解任し、親政を開始。
ビスマルクとの対立と新路線
即位からわずか2年後の1890年、ヴィルヘルム2世はドイツ統一の立役者であるビスマルクを解任しました。この決定は、若い皇帝の権力欲と、保守的なビスマルクの慎重外交との根本的な対立を示すものでした。
ドイツの現状維持と周辺国との均衡を重視する慎重な外交政策
ドイツの「世界政策」を推進し、積極的な拡張主義を目指す野心的な姿勢
世界政策(ヴェルトポリティーク)の推進
ビスマルク解任後、ヴィルヘルム2世は「世界政策」と呼ばれる拡張主義的な外交路線を採用しました。この政策は、ドイツを単なるヨーロッパの大国から世界的な帝国へと押し上げることを目的としていました。
アルフレート・フォン・ティルピッツ提督の下で大規模な海軍拡張を実施。イギリスの海上覇権に挑戦する姿勢を明確にした。
アフリカ、太平洋地域での植民地獲得に積極的に参加。特にモロッコ問題ではフランスと対立を深めた。
オスマン帝国との協力によりバグダッド鉄道建設を推進し、中東への影響力拡大を図った。
第一次世界大戦への道
ヴィルヘルム2世の積極的な世界政策は、既存の大国との軍事的・外交的緊張を高め、最終的には第一次世界大戦の勃発へとつながりました。
1908年のボスニア・ヘルツェゴビナ併合支持
1914年のサラエボ事件後、オーストリア=ハンガリー帝国への「白紙委任状」
ロシアとの戦争不可避論の拡大
1914年8月1日、ロシアへの宣戦布告
戦時中の統治と敗戦
第一次世界大戦中、ヴィルヘルム2世の政治的影響力は次第に軍部に奪われていきました。特にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・ルーデンドルフによる軍事独裁体制の確立により、皇帝の実権は著しく制限されました。
1918年のドイツ革命により、各地で労働者・兵士評議会が蜂起し、君主制に対する批判が全国に拡大しました。
第一次世界大戦の敗戦とロシア革命の影響を受けた民主化運動。
退位と亡命生活
1918年11月9日、ヴィルヘルム2世は皇帝およびプロイセン王の地位を放棄し、オランダへ亡命しました。この退位は、ドイツ帝政の終焉とヴァイマル共和国の成立を意味する歴史的転換点となりました。
第一次世界大戦敗戦とドイツ革命により、皇帝位を放棄してオランダに亡命。
オランダのドールン城で亡命生活を送り、回想録の執筆や園芸に時間を費やした。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のオランダで82歳で死去。
ヴィルヘルム2世の治世は、ドイツ帝国の最盛期と破滅を同時に象徴しています。彼の野心的な世界政策は短期的にはドイツの国際的地位を高めましたが、長期的には第一次世界大戦という破滅的な結果を招きました。