ネロが母親アグリッピナを殺害した背景には、政治的な権力争いと個人的な対立がありました。アグリッピナはネロを皇帝に押し上げた人物でしたが、その後も宮廷政治に深く介入し続け、若き皇帝の自由な統治を妨げました。そのため次第に母子の関係は悪化し、やがてネロは自らの権力を守るために母の暗殺を決意しました。
アグリッピナが宮廷政治に介入し続けた
ネロの独自の統治を妨げた
権力闘争から母子の関係が悪化した
当初ネロは船を沈めて事故死に見せかけようとしましたが失敗し、最終的に刺客を送って殺害させました。これによってネロは単独での統治を確立しましたが、「母殺し」の烙印を押され、後世に残虐な皇帝像として語り継がれることになりました。
アグリッピナは元老院や軍の支持を動かせるほどの影響力を持っていたため、ネロにとって脅威であった。
母の干渉を嫌い、自由を求めるネロにとってアグリッピナは重荷となった。さらに愛人ポッパエアの存在も対立を深めた。
母を排除することで単独統治を実現したが、同時に「母殺し」の悪名が歴史に刻まれた。
ネロの妻殺し
ネロは妻ポッパエア・サビナをも死に追いやったと伝えられています。史料によって説は異なりますが、スエトニウスは日常の口論の中で妊娠中のポッパエアを激しく蹴った結果、彼女が流産とともに命を落としたと記録しています。一方、タキトゥスは毒殺による死を伝えており、真相は不明ですが、ネロの暴力や衝動的な行動が妻の死につながったと考えられています。
ネロは激しい怒りのあまり妊娠中のポッパエアを蹴り殺した
別の史料では毒殺によって死んだとされる
この事件は偶発的な激情の結果だったのか、計画的な行動だったのかは明らかではありません。しかしいずれにせよ、妻をも手にかけたことでネロの残虐なイメージはさらに強化され、暴君としての評価を決定づけました。
ポッパエアはネロにとって重要な伴侶であり、東方政策やユダヤ戦争にも影響を与えたとされる。
ネロは激情を抑えられず、些細な口論が命に関わる事件に発展した。
妻殺しの伝承が広まり、ネロの治世は暗黒面を象徴する出来事として後世に伝わった。
ネロは母と妻という最も身近な存在を相次いで殺害し、その統治を血で染めました。こうした行為はローマ帝国の政治史においても衝撃的であり、ネロを「暴君」とする歴史的イメージを決定的なものとしたのです。