植民地の新聞や法的文書に印紙税を課す法律。「代表なくして課税なし」のスローガンが生まれる契機となった。
アメリカ独立戦争(1775-1783年)は、13の植民地がイギリス本国から独立を果たした歴史的転換点です。この戦争は単なる軍事衝突ではなく、近世から近代への移行を象徴する政治革命でもありました。
戦争の背景と原因
18世紀中頃、イギリスは七年戦争(1756-1763年)でフランスに勝利し、北アメリカにおける覇権を確立しました。しかし戦争による財政悪化を受け、イギリス政府は植民地への課税を強化します。
茶、紙、ガラスなどの輸入品に関税を課した。植民地の反発により1770年に大部分が撤廃されるも、茶税は残存。
東インド会社の茶の独占販売を認める法律。植民地商人の利益を直接脅かし、ボストン茶会事件の引き金となった。
ボストン茶会事件への報復として制定。植民地では「耐え難き諸法」と呼ばれ、武力抵抗の気運が高まった。
これらの課税政策に対し、植民地側は「代表なくして課税なし(No taxation without representation)」を掲げて抵抗しました。イギリス議会に代表を送っていない植民地に対する一方的な課税は、イギリス人の伝統的権利を侵害するものだと主張したのです。
戦争の勃発から独立宣言まで
1775年4月レキシントン・コンコードの戦い
植民地民兵とイギリス軍が武力衝突
第二回大陸会議が開催される
1776年7月4日独立宣言採択
戦争は1775年4月19日、マサチューセッツ州レキシントンとコンコードでの武力衝突から始まりました。イギリス軍が植民地の武器庫を破壊しようとしたところ、民兵組織「ミニットマン」が抵抗したのです。
1776年7月4日、大陸会議はトマス・ジェファソンが起草した独立宣言を採択します。この文書は啓蒙思想の影響を強く受け、「すべての人間は生まれながらにして平等」という自然権思想を基盤としていました。
独立宣言は自然権思想に基づき、革命権を正当化しました。
ロックの思想を継承し、生命・自由・財産を守るため政府に抵抗する権利があるとする考え方。
戦局の転換
初期の戦況はイギリス優勢でした。世界最強の海軍力と正規軍を持つイギリスに対し、植民地軍は装備・訓練ともに劣勢だったためです。しかしジョージ・ワシントンの巧妙な戦術により、植民地軍は持久戦に持ち込みます。
転換点となったのは1777年のサラトガの戦いでした。この勝利により、フランスが植民地側での参戦を決意します。
イギリス対植民地の戦争
イギリス対植民地・フランス・スペイン・オランダの戦争
フランスの参戦は戦局を決定的に変えました。フランス海軍がイギリス海軍を牽制し、資金・武器・軍事顧問を提供したことで、植民地軍の戦力は大幅に向上したのです。
戦争の終結と影響
1781年10月、ヨークタウンの戦いでイギリス軍司令官コーンウォリス将軍が降伏し、事実上戦争は終結しました。1783年のパリ条約で正式に講和が成立し、イギリスはアメリカの独立を承認します。
フランス海軍が海上を封鎖し、陸上では植民地軍とフランス軍がイギリス軍を包囲。コーンウォリス将軍の降伏により事実上の勝敗が決した。
イギリスがアメリカの独立を正式承認。領土はミシシッピ川以東、五大湖以南、フロリダ以北とされた。漁業権や債務問題も取り決められた。
この戦争の世界史的意義は極めて大きなものでした。市民革命としては、イギリス革命に続く第二の近代市民革命であり、後のフランス革命にも大きな影響を与えました。また、連邦制度や成文憲法の導入は、近代国家の新たなモデルを提示したのです。
アメリカ独立戦争は、重商主義的な植民地支配から自由貿易への転換点でもありました。この変化は19世紀の帝国主義時代に向けた大きな布石となり、世界経済の構造変化を促進したのです。