伝説上の建国年。実際にはこの頃からラテン人の集落が形成される。
イタリアの歴史は、古代から現代まで約3000年にわたる壮大な物語です。地中海の中心に位置するイタリア半島は、文明の十字路として数多くの民族や文化が交錯し、ヨーロッパ史の中核を担ってきました。
古代ローマ時代(紀元前8世紀〜5世紀)
イタリア史の出発点は古代ローマです。伝説によれば紀元前753年にロムルスとレムスがローマを建国したとされますが、実際には紀元前8世紀頃からラテン人が定住を始めました。
王政を廃止し、執政官を中心とする共和政体制を確立。
カルタゴとの3度の戦争により地中海の覇権を獲得。
ユリウス・カエサルが独裁官となるが暗殺される。
アウグストゥスが初代皇帝となり、ローマ帝国が成立。
コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認。
ゲルマン人オドアケルが最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位。
ローマは最盛期には地中海全域を支配し、現在のヨーロッパ、北アフリカ、中東の広大な領域に及ぶ大帝国を築きました。ローマ法、ラテン語、キリスト教などは後のヨーロッパ文明の基盤となりました。
中世初期:蛮族侵入と分裂(5〜10世紀)
西ローマ帝国滅亡後、イタリア半島は政治的統一を失い、複数の勢力による支配が続きました。
東ゴート王国による支配(493-553年)
ビザンツ帝国の再征服(553-568年)
ランゴバルド王国の建国(568年)
フランク王国の侵入とカロリング朝による支配
この時期の重要な出来事は、754年にピピンの寄進によって教皇領が成立したことです。これにより教皇は世俗的な支配者としての地位も獲得し、後の中世ヨーロッパの政治構造に大きな影響を与えました。
800年のクリスマスにローマ教皇レオ3世がカール大帝に皇帝冠を授与した出来事は、中世ヨーロッパの政治秩序の出発点となりました。
ローマ帝国の復活を象徴する戴冠式で、後の神聖ローマ帝国の根拠となった。
中世盛期:都市国家の発展(11〜13世紀)
11世紀以降、イタリアでは商業の復活とともに都市が発達し、独特の都市国家システムが形成されました。これらの都市国家は事実上の独立国として機能し、地中海貿易で富を蓄積しました。
東方貿易で繁栄し、十字軍やビザンツ帝国との関係を通じて地中海東部の覇権を握った。「アドリア海の女王」と呼ばれ、独特の共和政体制を維持。
西地中海の海上貿易を支配し、ヴェネツィアと激しく競合。コロンブスなど多くの航海者を輩出。
毛織物業と金融業で発達。メディチ家などの富裕商人が政治的影響力を獲得し、後のルネサンス文化の中心となる。
北イタリアの農業地帯を基盤とし、ヴィスコンティ家、スフォルツァ家による支配の下で軍事的に強力な国家を形成。
この時期には神聖ローマ皇帝と教皇の対立(叙任権闘争)により、イタリアの都市は皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)に分かれて争いました。しかし、これらの対立は結果的に都市の自治権を強化することになりました。
ルネサンス時代(14〜16世紀)
14世紀から16世紀にかけて、イタリアは文化史上最も輝かしい時代を迎えます。経済的繁栄を基盤として、古典古代の復活と人文主義思想が花開きました。
イタリア半島は依然として多数の都市国家と君主国に分かれており、統一は実現していない
ラテン語とともにイタリア語(トスカーナ方言)が文学言語として確立し、文化的アイデンティティが形成される
ルネサンス期の主要な政治勢力は以下の通りです。
コジモ・デ・メディチが事実上の君主となり、芸術保護者として活動。
フランチェスコ・スフォルツァが公爵位を獲得し、軍事国家を建設。
主要5大国(ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、教皇領、ナポリ王国)間の勢力均衡体制が成立。
フランス王シャルル8世のナポリ侵攻により、外国勢力によるイタリア争奪戦が本格化。
ルネサンス文化の担い手となったのは、メディチ家、エステ家、ゴンザーガ家などの君主や富裕商人でした。彼らの庇護の下で、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの芸術家が活動し、現在でも世界文化遺産として親しまれる作品を数多く残しました。
外国支配時代(16〜18世紀)
1494年から始まったイタリア戦争は、イタリアが外国勢力の争奪の場となることを意味しました。最終的にはハプスブルク家のスペインが南イタリアとミラノを支配し、イタリアの大部分が外国の影響下に置かれることになります。
フランス・ヴァロワ朝のイタリア介入(1494-1559年)
スペイン・ハプスブルク家の覇権確立(1559-1700年)
オーストリア継承戦争とオーストリア支配(1700-1796年)
ナポレオン戦争とフランス支配(1796-1815年)
この時代の特徴は政治的停滞でした。イタリアの諸国は独立性を失い、外国の政策に翻弄される状況が続きました。しかし、文化面では17世紀にバロック芸術が花開き、ベルニーニやボロミーニなどの建築家・彫刻家が活躍しました。
18世紀には啓蒙思想の影響を受けて、一部の君主による改革も試みられました。特にトスカーナ大公レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルド2世)による改革は注目に値します。
レオポルドは重農主義の影響を受けて農業改革を推進し、ギルド制度の廃止や自由貿易の促進を図りました。
フランスの重農主義経済学派の理論に基づく自由放任経済政策。
リソルジメント(19世紀)
19世紀に入ると、ナポレオン戦争の影響でイタリア半島にも国民意識が芽生え、統一への機運が高まりました。この統一運動を「リソルジメント」(復活)と呼びます。
リソルジメントの指導者たちは、それぞれ異なるアプローチでイタリア統一を目指しました。
「青年イタリア」を結成し、共和制によるイタリア統一を主張。理想主義的な革命家として各地で蜂起を指導したが、現実的な成果は限定的。
サルデーニャ王国の首相として、外交と政治工作により統一を推進。自由主義的な立憲君主制を志向し、現実主義的な政治手法で成果を上げた。
「赤シャツ隊」を率いて南イタリア征服を実現。共和主義者だったが、統一のためにサヴォイア家への忠誠を誓い、軍事的英雄として国民的人気を獲得。
統一の過程は段階的に進行しました。
各地で革命が勃発するが、オーストリアの反撃により失敗。しかしサルデーニャ王国では憲法(アルベルト憲章)が制定される。
サルデーニャ王国がフランスと同盟してオーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得。
シチリア島から出発した義勇軍が南イタリアを征服し、サルデーニャ王国に併合。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が初代イタリア国王に即位。ただしローマとヴェネツィアはまだ未回収。
普墺戦争に便乗してヴェネツィアを獲得。
普仏戦争によりフランス軍が撤退した隙にローマを占領し、イタリア統一が完成。
自由主義時代(1870〜1922年)
統一後のイタリアは立憲君主制の下で近代化を進めましたが、南北格差や社会問題など多くの課題を抱えていました。
政治的には「右派歴史派」(カヴール派)と「左派歴史派」(共和派出身者)の交代により議会政治が機能しましたが、1882年以降は「トラスフォルミズモ」(変質主義)と呼ばれる政治取引により政党政治が曖昧になりました。
北部では工業化が進展し、フィアット(1899年創業)などの近代的企業が成立。鉄道網の整備により国内市場が統合される
南部では依然として農業が支配的で、大土地所有制による貧困が深刻。大量の移民(1880-1920年で約1400万人)がアメリカなどに流出
外交面では、1882年にドイツ・オーストリアと三国同盟を結成しましたが、20世紀初頭にはフランスとの関係改善を図る「両面政策」を取りました。
第一次世界大戦(1915-1918年)では、当初中立を保ちましたが、領土拡張への期待から1915年に協商国側で参戦しました。戦争の結果、トレンティーノやトリエステなど「未回収のイタリア」を獲得しましたが、多大な犠牲と経済的困窮により戦後社会は深刻な危機に陥りました。
ファシズム時代(1922〜1943年)
戦後の社会不安の中で台頭したのがベニート・ムッソリーニ率いる国家ファシスト党でした。
戦後恐慌と社会主義勢力の伸張
ファシスト党による街頭暴力と「秩序」の提供
1922年ローマ進軍と政権獲得
1925年独裁体制の確立
ムッソリーニは当初、議会制度内での権力掌握を図りましたが、1924年のマッテオッティ事件(社会主義議員の暗殺)を契機として独裁体制を確立しました。
ファシスト政権は企業国家体制を構築し、労働組合と経営者団体を国家の統制下に置きました。
コーポラティヴィズムと呼ばれる、階級対立を否定し職業別組織による協調を重視する政治経済体制。
ファシスト政権の主要政策と出来事は以下の通りです。
ヴァチカンとの和解により、ローマ教皇庁の独立を承認。カトリック教会との関係を改善し、政権の正統性を強化。
アフリカでの植民地拡大を図り、エチオピア帝国を征服。国際連盟の制裁を受けるが、国内では人気を博した。
ヒトラーのドイツとの提携を開始。スペイン内戦でもフランコ政権を支援。
ドイツの勝利を確信して参戦するが、ギリシャ、北アフリカで相次いで敗北。
ファシスト大評議会と国王によりムッソリーニが解任される。バドリオ政権が成立し、連合国との講和交渉を開始。
共和国時代(1946年〜現在)
第二次世界大戦後、イタリアは王制を廃止して共和国となり、現在まで続く民主主義体制を確立しました。
戦後復興期(1946-1960年代)は「経済の奇跡」と呼ばれる高度成長を遂げました。マーシャル・プランによる援助と安価な労働力により、重工業を中心とする工業化が急速に進展しました。
キリスト教民主党(DC)を中心とする中道政権が長期間継続し、共産党を排除した西側陣営での安定した民主主義を実現。
1950年代の土地改革と工業化政策により、南部の農業社会から脱却が始まる。しかし格差の根本的解決には至らず。
1951年の欧州石炭鉄鋼共同体設立から一貫してヨーロッパ統合を支持し、EEC、EC、EUの主要メンバーとして活動。
1960年代には労働運動の高まりとともに社会保障制度が整備され、女性の地位向上や教育の普及が進展。
1970年代から1980年代にかけては「鉛の時代」と呼ばれる政治的暴力の時代となりました。極左テロ組織「赤い旅団」や極右暴力によるテロ事件が頻発し、社会不安が増大しました。
1990年代には「タンジェントポリ」(汚職の街)事件により戦後政治体制が崩壊し、政界再編が行われました。この時期にベルルスコーニなどの新たな政治指導者が登場し、現在まで続く政治的不安定の時代が始まりました。
汚職捜査「清潔な手」作戦により既成政党が壊滅。キリスト教民主党、社会党などが解体し、戦後政治体制が終了。
メディア王ベルルスコーニが中道右派政権を樹立するが、8か月で崩壊。以後、中道左派と中道右派の政権交代が続く。
欧州通貨統合の創設メンバーとなり、リラに代わってユーロを導入。経済安定に寄与する一方、競争力低下の要因ともなる。
リーマンショックの影響で深刻な経済危機に陥る。その後の欧州債務危機では、ギリシャと並んで財政問題が深刻化。
反体制政党の五つ星運動と極右の同盟が連立政権を樹立。従来の政治に対する国民の不満が表面化。
現在のイタリアは、少子高齢化、経済成長の停滞、移民問題、EU統合の課題など、多くの現代的問題に直面しています。しかし同時に、文化遺産の豊富さ、ファッションや食文化での世界的影響力、技術革新における潜在力など、多くの強みも持ち続けています。
イタリアの歴史は、統一の困難さと多様性の豊かさを同時に示しています。古代ローマ以来の文明の継承者として、また現代ヨーロッパの重要な一員として、イタリアは今後も独自の歴史を刻み続けていくことでしょう。