ユリウス2世(在位 1503〜1513年)は、ルネサンス期を代表する教皇の一人で、芸術の庇護者として知られると同時に、戦争好きで「戦う教皇」と呼ばれました。出生名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレで、フランシスコ会士出身の教皇シクストゥス4世の甥でした。その縁から早くに枢機卿となり、やがて教皇の座に就きました。
政治と軍事での活動
ユリウス2世は教皇領を強化するために武力を積極的に用いました。フランスやヴェネツィアに対抗するために「カンブレー同盟」(1508年)や「神聖同盟」(1511年)を結成し、自ら軍を率いて戦場に赴いたことでも有名です。彼は教皇の世俗的権力を守り、ローマ教皇庁の威信を高めることに執念を燃やしました。
ヴェネツィアやフランスの勢力拡大
教皇領の喪失の危機
ユリウス2世が同盟を結成し、自ら戦場に出る
教皇領の回復と強化
芸術の庇護者としての業績
ユリウス2世は文化芸術にも大きな影響を残しました。彼はラファエロにヴァチカン宮殿の「署名の間」の装飾を依頼し、ミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂天井画を描かせました。また、ブラマンテにサン・ピエトロ大聖堂の新築を命じ、その後の壮大な建築計画の基礎を築きました。
ブラマンテの設計で基礎工事を開始。のちにミケランジェロらによって完成に向かう。
1508年にミケランジェロへ依頼。「天地創造」や「アダムの創造」などが描かれる。
「アテネの学堂」などを含む傑作群が制作され、ヴァチカン宮殿の象徴的空間となる。
死去と評価
ユリウス2世は 1513年に死去しました。彼の教皇在位は、軍事的には教皇領を守り抜いた点で成功とされますが、宗教的権威を戦争と同盟に過度に依存したため批判も受けました。一方で、芸術の発展を後押しした功績はきわめて大きく、今日でも「芸術の黄金時代」を切り開いた人物として高く評価されています。