サリスベリー伯率いるイングランド軍がオルレアンの包囲を開始。南側のトゥーレル要塞を占領し、包囲網の構築を開始。
オルレアン包囲戦(1428年10月-1429年5月)は百年戦争の転換点となった攻城戦で、ジャンヌ・ダルクの登場によってフランス側が劇的な勝利を収めた歴史的な戦いです。この戦いは単なる軍事的勝利を超えて、フランス国民の意識を大きく変える象徴的な出来事となりました。
戦争の背景と戦略的重要性
1420年のトロワ条約により、イングランドのヘンリー5世がフランス王位継承権を得て以降、フランス北部の大部分がイングランド・ブルゴーニュ同盟の支配下に置かれていました。オルレアン市はロワール川沿いに位置し、南フランスへの玄関口として極めて重要な戦略拠点でした。
ロワール川の重要な渡河点に位置し、南フランスとパリを結ぶ交通の要衝。この都市を制圧すれば、イングランド軍は南フランス全域への侵攻が可能になる。
オルレアンはシャルル7世の弟であるオルレアン公の所領の中心地。この都市の陥落は王朝の正統性と支配力に致命的な打撃を与える可能性があった。
フランス中央部の重要都市であり、その陥落は残るフランス貴族たちの士気に深刻な影響を与え、イングランド側の最終的勝利を印象づける効果があった。
包囲戦の経緯
1428年10月12日、サリスベリー伯トマス・モンタキューが率いるイングランド軍がオルレアン包囲を開始しました。イングランド軍は約5,000名、対するオルレアン守備隊は市民兵を含めて約2,400名という戦力差がありました。
包囲中にサリスベリー伯がフランス軍の砲撃により戦死。指揮はサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールに移るが、士気に影響。
サー・ジョン・ファルストフが率いるイングランド補給隊がフランス軍の攻撃を撃退。オルレアンの補給路遮断が継続される。
ジャンヌ・ダルクがオルレアンに到着し、市民と守備隊の士気が劇的に向上。攻勢作戦の準備を開始。
フランス軍がイングランド軍の包囲陣を完全に突破し、157日間続いた包囲戦が終結。
ジャンヌ・ダルクの登場とその影響
包囲戦の転換点は、1429年4月29日のジャンヌ・ダルクの到着でした。17歳の農民の娘が神の啓示を受けたと主張し、シャルル7世の宮廷で軍事指揮権を獲得してオルレアンに現れたのです。
ジャンヌは到着直後から積極的な攻勢作戦を主張し、それまで守勢に回っていたフランス軍の戦術を根本的に変更させました。彼女の存在は宗教的熱狂を生み出し、絶望的だった状況を一変させる効果をもたらしました。
ジャンヌの戦術的貢献について、軍事史家たちは彼女の直接的な軍事的才能よりも、むしろ士気向上と積極的攻勢への転換をもたらした指導力を評価しています。彼女は従来の慎重な包囲戦術を放棄し、敵の要塞への直接攻撃を指示しました。
4月30日:レ・トゥーレル要塞への攻撃準備
5月4日:サン・ルー要塞の攻略
5月6日:オーギュスタン要塞の攻略
5月7日:レ・トゥーレル要塞の攻略
5月8日:イングランド軍の完全撤退
戦闘の詳細と戦術的展開
包囲戦における決定的な戦闘は、1429年5月4日から8日にかけての連続攻撃でした。ジャンヌ・ダルクは従来の包囲戦の常識を覆し、守備側でありながら積極的な攻勢作戦を展開しました。
慎重な守備戦術で敵の攻撃を待ち、長期戦による消耗を狙う受動的アプローチ
敵要塞への直接攻撃を連続実施し、短期決戦で包囲網を突破する積極的アプローチ
5月7日のレ・トゥーレル要塞攻撃では、ジャンヌ自身が負傷しながらも戦闘を指揮し続け、フランス軍の最終的勝利を導きました。彼女は肩に矢を受けたにも関わらず、包帯を巻いて戦場に復帰し、要塞攻略を完遂させています。
包囲戦の軍事技術的側面
オルレアンの包囲戦は15世紀の攻城戦技術の発展を示す重要な事例でもありました。この戦いでは火器の使用が本格化し、従来の攻城戦術に大きな変化をもたらしました。
| 使用された火器 | カルヴァリン砲、ボンバード砲、携帯火器 |
| 城塞防御技術 | 堀と土塁、石壁の多層防御、砲撃対応設計 |
| 補給戦略 | ロワール川の水運活用、周辺農村からの食料調達 |
| 通信手段 | のろし、使者による連絡、教会の鐘による警報 |
戦争全体への影響と歴史的意義
オルレアンの包囲解除は百年戦争の流れを決定的に変える転換点となりました。この勝利により、フランス軍は守勢から攻勢へと転じ、最終的にイングランド軍をフランス本土から駆逐することに成功します。
この戦いの歴史的意義は単なる軍事的勝利を超えて、フランス王国の統一と民族意識の形成に大きく寄与した点にあります。ジャンヌ・ダルクという象徴的人物の登場により、それまで分裂していたフランス諸侯が王室の下に結集する契機となったのです。