フス派の民衆がプラハ市庁舎に突入し、市参事会員を窓から投げ落とす事件が発生。フス戦争の開始。
ヤン・フスは14世紀末から15世紀初頭にかけて活動したボヘミアの神学者・宗教改革者で、カトリック教会の腐敗を批判し、宗教改革の先駆者として重要な役割を果たした人物です。
1370年頃、ボヘミア(現在のチェコ)の農民家庭に生まれ、プラハ大学で学んだ後、同大学で神学を教える教授となりました。1409年にはプラハ大学の学長に就任し、ベツレヘム礼拝所で説教を行いました。
イングランドの神学者ジョン・ウィクリフの影響を受け、教皇の権威よりも聖書の権威を重視する立場を取りました。また、聖職者の堕落や教会の世俗化を厳しく批判しました。
1415年、コンスタンツ公会議において異端として火刑に処されましたが、その死は後のフス戦争やプロテスタント宗教改革に大きな影響を与えました。
ウィクリフ思想の継承
フスはジョン・ウィクリフの著作に深く影響を受け、その思想をボヘミアに導入しました。特に「教会の真の頭はキリストであり、教皇ではない」という考えを支持し、教皇制度そのものに疑問を呈しました。
教皇は使徒ペトロの後継者として地上における神の代理人であり、教会の最高権威である
真の権威は聖書にあり、教皇といえども誤りを犯す可能性があるため、その権威は絶対的ではない
フスは聖書をラテン語からチェコ語に翻訳することで、一般民衆が直接神の言葉に触れることができるよう努めました。これは当時のカトリック教会が聖書の解釈を聖職者に独占させていた状況に対する革命的な試みでした。
ベツレヘム礼拝所での説教活動
1402年から1413年まで、フスはプラハのベツレヘム礼拝所で定期的に説教を行いました。この礼拝所は1391年に建設された特別な施設で、ラテン語ではなく母国語での説教が許可されていました。
農民や市民でも理解できるチェコ語での説教
聖職者の腐敗と贅沢な生活への批判
聖書に基づいた純粋な信仰の回復
民衆の宗教的自覚の高まり
フスの説教は多くの民衆の支持を得ましたが、同時にカトリック教会の聖職者や保守派からは危険視されるようになりました。
コンスタンツ公会議での裁判
1414年、コンスタンツ公会議が開催され、西欧教会の大分裂(シスマ)の解決と教会改革が議論されました。神聖ローマ皇帝ジギスムントの身柄保証の約束を信じて出席したフスでしたが、到着後すぐに逮捕され、異端審問にかけられました。
フスは自分の主張を撤回するよう求められましたが、「聖書に反することは撤回できない」として拒否し、良心に従って信念を貫きました。
神と聖書に対してのみ責任を負うという個人の信仰的確信。
1415年7月6日、42歳の若さで火刑に処され、その遺灰はライン川に撒かれました。処刑前、フスは「今日あなた方は一羽のガチョウを焼くが、100年後には白鳥が現れるだろう」と予言したとされています。(「フス」はチェコ語で「ガチョウ」を意味します)
フス戦争とその後の影響
フスの処刑はボヘミアの民衆に大きな衝撃を与え、1419年から1436年まで続くフス戦争の引き金となりました。
タボル派とウトラキスト派に分かれたフス派が、神聖ローマ皇帝やカトリック教会と激しく戦闘。ヤン・ジシュカが軍事的指導者として活躍。
ウトラキスト派がカトリック教会と和解。聖餐の両形態(パンとワイン)での配給などが認められる。
マルティン・ルターが95か条の論題を発表し、プロテスタント宗教改革が本格化。フスの予言が現実となる。
プロテスタント宗教改革への影響
フスの思想と殉教は、約100年後のマルティン・ルターをはじめとする宗教改革者たちに大きな影響を与えました。ルターは1520年の著作で「我々は皆フス派である」と述べ、フスを宗教改革の先駆者として高く評価しました。