享保の改革、寛政の改革、天保の改革|小学社会
1716 年に徳川吉宗が将軍につくと、吉宗は幕府の財政を立て直すためにさまざまな改革を行った。これを享保の改革という。以降、江戸時代は享保の改革、寛政の改革、天保の改革と政治・財政改革を行った。
享保の改革
目安箱は町人、商人、農民などの人々の意見を聞くためのもの。
参勤交代における江戸の在留期間を 1 年から半年にする代わりに、1 万石につき 100 石の米を献上させる。
能力のあるものを積極的に登用する。足高の制によって大岡忠相は出世し、やがて町奉行から大名になった。
目安箱は町人、商人、農民などの人々の意見を聞くためのもので、これに投じられた意見から小石川養生所が作られた。小石川養生所は江戸の貧しい人たちのための医療・福祉施設であり、町奉行の大岡忠相が作った。
上米の制は、参勤交代における江戸の在留期間を 1 年から半年にする代わりに、1 万石につき 100 石の米を献上させるというもの。これによって幕府の収入は増加した。
吉宗は、能力のあるものを積極的に登用するために足高の制を制定した。足高の制によって大岡忠相は出世し、やがて町奉行から大名になった。
1732 年、享保の大飢饉が起きて米価が高騰し、市民が暴動を起こすなどの事件が起きた。
寛政の改革
囲い米の制の徹底、棄捐令。
朱子学の奨励、古文辞学の禁止。
1787 年に老中の松平定信が寛政の改革をはじめた。享保の大飢饉などの反省から、大名に穀物を貯蔵させる囲い米の制を徹底させ、棄捐令で借金を帳消しにした。
また昌平坂学問所(幕府公認の学校)では朱子学のみを許可し、他の学問(古文辞学など)を禁止した。これを寛政異学の禁という。
天保の改革
老中・水野忠邦による政策。
天保の改革は老中の水野忠邦が行った政策のこと。その前に天保の大飢饉が起きて、元大坂町奉行役人の大塩平八郎が貧しい人を救おうと反乱を起こした。
天保の大飢饉の米不足は甚大な被害を与え、幕府の収入は減った。水野忠邦はぜいたくを禁止したり、上知令(江戸や大阪周辺の土地を幕府の直轄地にする)などを試みたが、わずか 2 年で終わった。