アケメネス朝ペルシアは、紀元前 550 年にキュロス 2 世が建国した大帝国で、オリエント世界を統一した最初の大規模な帝国とされています。インダス川流域からエーゲ海にまで及ぶ広大な領域を支配し、その統治体制は後世の帝国にも大きな影響を与えました。
建国と拡大
キュロス 2 世はメディア王国を滅ぼし、リュディアや新バビロニアを征服して勢力を広げました。特にバビロン征服後には捕囚されていたユダヤ人を解放するなど、寛容な政策でも知られています。続くカンビュセス 2 世の代にはエジプトも征服され、帝国の版図はさらに拡大しました。
ダレイオス 1 世の統治と制度
ダレイオス 1 世は中央集権的な統治体制を確立したことで有名です。彼は帝国を約 20 の州(サトラピー)に分け、それぞれに総督(サトラップ)を置いて支配しました。
| サトラピー制度 | 州ごとに総督を配置し、徴税や治安を担当 |
| 王の目・王の耳 | 密使を派遣して各地の官吏を監視 |
| 王の道 | 主要都市を結ぶ幹線道路で通信や軍事を迅速化 |
これらの制度により、広大な領土を効率的に統治することが可能となりました。
文化と宗教
アケメネス朝の宗教的基盤にはゾロアスター教があり、善悪二元論的な世界観が特徴でした。ただし帝国は多民族国家であったため、他宗教にも比較的寛容でした。ペルセポリスやスサなどの壮大な宮殿建築は、帝国の繁栄を象徴するものとして知られています。
ギリシアとの抗争と衰退
紀元前 5 世紀には、ギリシア世界との対立が深まりました。ダレイオス 1 世およびクセルクセス 1 世の時代に行われたペルシア戦争では、マラトンの戦いやサラミスの海戦で敗北を喫しました。
ペルシアのギリシア遠征
ギリシア連合軍の勝利
帝国の威信低下
その後も強大な帝国として存続しましたが、内紛や地方の反乱が続き、次第に衰退していきます。最終的に紀元前 330 年、マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされました。
まとめ
アケメネス朝ペルシアは、世界初の「帝国」モデルを提示した存在であり、その行政制度や寛容政策は、後のヘレニズム国家やローマ帝国にも影響を与えました。