小アジア(現在のトルコのアナトリア半島)は、古代から近現代に至るまで、数多くの文明と民族が交錯してきた地域です。そのため「文明の十字路」とも呼ばれ、東西文化の交流拠点として重要な役割を果たしてきました。
古代文明と王国の興亡
この地には紀元前にヒッタイト帝国が栄え、鉄器文明の発展と国際関係への参加で知られます。ヒッタイト滅亡後はフリギア、リュディア、カリア、リキアなどの小国が登場し、それぞれ独自の文化を育みました。西岸部にはギリシア人が植民し、ミレトスやエフェソスといった都市が学問と商業の中心となりました。
ペルシア支配とイオニアの反乱
やがて小アジアはアケメネス朝ペルシアに征服され、イオニアの都市は反乱を起こしました。これは後のペルシア戦争のきっかけとなります。
イオニアの反乱
アケメネス朝ペルシアによる鎮圧
ペルシア戦争の引き金となる
アレクサンドロスとヘレニズム時代
紀元前 4 世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征を行い、小アジアもその支配下に入りました。その後はセレウコス朝やペルガモン王国などのヘレニズム国家に分割され、ギリシア文化が深く浸透しました。
ローマとビザンツの時代
小アジアはローマ帝国に編入され、道路や都市の建設が進み、アジア州などの属州として繁栄しました。やがて首都コンスタンティノープルの建設により、ビザンツ帝国の中心地域となり、キリスト教とギリシア文化の融合地として発展します。
交易路や都市基盤が整備され、安定した統治の下で繁栄した。
東方正教の中心として宗教と文化の拠点となり、長く帝国の中核を担った。
トルコ化とオスマン帝国
11 世紀、セルジューク朝トルコがマラズギルトの戦いでビザンツを破ると、小アジアは急速にトルコ化しました。その後、オスマン帝国が台頭し、首都イスタンブルを中心に広大な領域を統治しました。
近現代への歩み
第一次世界大戦後、オスマン帝国が崩壊すると、ムスタファ・ケマル(アタテュルク)が率いる独立運動によってトルコ共和国が誕生しました。