ビルマ王朝の変遷:パガンからコンバウンまで
現在のミャンマーにあたるイラワジ川流域では、11 世紀から 19 世紀にかけて複数の王朝が興亡を繰り返した。パガン朝に始まりコンバウン朝に至るビルマ王朝の歴史は、上座部仏教の受容、多民族の統合と対立、そして東南アジア大陸部の勢力均衡を理解する上で欠かせないテーマである。
パガン朝以前のビルマ
ビルマの歴史を語る上で最初に登場するのは、イラワジ川中流域のピュー族と南部沿岸のモン族だ。ピュー族はシュリー・クシェートラ(タイエーキッタヤー)を中心に 2 世紀頃から都市国家を形成し、インド文化の影響を受けて上座部仏教や大乗仏教を信仰していた。一方、モン族は下ビルマのタトゥン王国を拠点に、インドやスリランカとの海上交易を通じて上座部仏教の伝統を育んでいた。
9 世紀に南詔(現在の中国雲南省)からの圧力でピュー族の都市国家が衰退すると、代わってビルマ族が北方からイラワジ川流域に南下してくる。彼らが定着し勢力を蓄えた先に、パガン朝の成立がある。
パガン朝(1044〜1287 年)
1044 年、アノーヤター王がパガン(バガン)を拠点にビルマ族初の統一王朝を樹立した。アノーヤターの最も重要な事業は、1057 年にモン族のタトゥン王国を征服し、上座部仏教の僧侶・経典・職人をパガンに連れ帰ったことだ。この征服によってパガン朝は上座部仏教を国教として受容し、以後ビルマの宗教的基盤が確立される。
アノーヤターはタトゥン征服に際し、モン族の僧侶シン・アラハンの助言を受けて上座部仏教への帰依を深めたとされる。それ以前のパガンでは大乗仏教やヒンドゥー教、土着のナッ(精霊)信仰が混在していたが、アノーヤターは上座部仏教を唯一の正統な信仰として推進した。
パーリ語経典に基づく仏教の一派。個人の修行と悟りを重視し、東南アジア大陸部で広く信仰されている。
パガン朝の最盛期を現出したのは、12 世紀後半のナラパティシートゥー王の治世である。この時期、パガンはスリランカとの緊密な宗教交流を通じて上座部仏教の浄化運動を推進し、東南アジアにおける上座部仏教の中心地としての地位を確立した。
パガンの平原には、最盛期に数千もの仏塔と寺院が建立された。現在でも約 2,000 基以上の仏教建造物が残っており、その壮大な景観は 2019 年にユネスコ世界遺産に登録されている。アーナンダ寺院やダマヤンジー寺院など、各時代の建築様式の変遷を追うことができる。
1105 年にチャンシッター王が建立。パガン建築の最高傑作とされ、ギリシア十字型の平面に四方の仏像を配置する独特の構造を持つ。
アノーヤター王がタトゥン征服後に建設した仏塔。仏陀の聖髪を納めたとされ、パガン朝の宗教的権威の象徴となった。
ナラトゥー王が 12 世紀に着工した最大規模の寺院。未完成のまま残されており、煉瓦の精密な積み方で知られる。
しかし 13 世紀後半、モンゴル帝国(元朝)の圧力がパガン朝に迫る。1277 年のガパインの戦いでパガン軍は元軍に敗北し、1287 年にはパガンが陥落してナラティハパテ王は逃亡、王朝は事実上崩壊した。以後、ビルマは複数の地方勢力に分裂する「小王国時代」に入る。
分裂期と群雄割拠
パガン朝の崩壊後、ビルマは約 250 年にわたる分裂期を迎えた。この時代の主要勢力は大きく三つに分かれる。
モンゴル撤退後に台頭したシャン族が、インワ(アヴァ)を拠点に上ビルマを支配。ビルマ文化とシャン文化が混交した。
バゴー(ペグー)を首都とするモン族のハンターワディー王国が復活。海上交易で繁栄し、上座部仏教文化の中心地として栄えた。
インワとバゴーは断続的に戦争を繰り返し、「四十年戦争」(1385〜1424 年)と呼ばれる長期の争いもあった。この時期のビルマは政治的には混乱していたものの、文学や法律の分野では重要な発展が見られ、ビルマ語文学の古典期にあたるとも評価されている。
タウングー朝(1510〜1752 年)
分裂期を終わらせたのが、下ビルマの小都市タウングーから興ったタウングー朝である。バインナウン王(在位 1550〜1581 年)の治世に帝国は最大版図を達成し、現在のミャンマー全域に加えてタイのアユタヤ王朝やラーンナー王国、ラオスのラーンサーン王国にまで勢力を広げた。
タビンシュエーティー王が下ビルマを統一(1539 年)
バインナウン王が上ビルマとシャン諸邦を征服
アユタヤ攻略でタイまで版図を拡大(1569 年)
東南アジア大陸部最大の帝国を形成
バインナウンは「東南アジア史上最大の征服者」とも評される人物で、象兵を主力とする強大な軍事力を背景に周辺諸国を次々と征服した。しかし、この広大な帝国は彼の個人的カリスマに大きく依存しており、1581 年の死後、各地で反乱が勃発して急速に縮小した。
タウングー朝は 17 世紀前半に首都をインワに移して「復興タウングー朝」として存続したが、最盛期の勢いは失われていた。1752 年、復興したモン族の勢力がインワを陥落させ、タウングー朝は滅亡する。
コンバウン朝(1752〜1885 年)
タウングー朝滅亡のわずか数か月後、上ビルマのシュエボーで地方豪族アラウンパヤーが挙兵し、モン族勢力を撃退してコンバウン朝を建国した。アラウンパヤーはわずか数年で上下ビルマを再統一し、最後のビルマ王朝を打ち立てた。
ビルマ族初の統一王朝。タトゥン征服により上座部仏教を国教化。
モンゴル軍の侵攻により陥落。約 250 年の分裂期へ。
小都市タウングーからビルマ再統一を開始。
東南アジア大陸部最大の帝国を形成。
アラウンパヤーがモン族を撃退し最後のビルマ王朝を樹立。
第三次英緬戦争で敗北し、ビルマ全土がイギリス領に。
コンバウン朝はその後もアユタヤ攻略(1767 年)やアッサム征服など活発な軍事行動を展開したが、19 世紀に入るとイギリス東インド会社との衝突が不可避となる。
イギリスとの三度の戦争
コンバウン朝とイギリスの対立は、ビルマのアッサム・マニプール方面への拡張がイギリス領インドの安全保障を脅かしたことに端を発する。三度にわたる英緬戦争は、ビルマの独立を段階的に奪っていった。
第一次英緬戦争(1824〜1826 年)では、コンバウン朝はアラカンとテナセリムを割譲させられた。第二次英緬戦争(1852 年)では下ビルマ全域がイギリスに併合され、ビルマは内陸国に追い込まれた。そして第三次英緬戦争(1885 年)で首都マンダレーが陥落し、最後の王ティーボーはインドに流刑となる。こうしてコンバウン朝は滅亡し、ビルマ全土はイギリス領インドの一州として編入された。
コンバウン朝は勇猛な兵士を擁していたが、近代的な火器・蒸気船・軍事組織を備えたイギリス軍には技術的に太刀打ちできなかった
フランスとの接近を図ったティーボー王の外交はイギリスの警戒を招き、かえって侵攻の口実を与える結果となった
ビルマ王朝の歴史的遺産
約 800 年にわたるビルマ王朝の歴史は、現代ミャンマーの社会と文化に深い刻印を残している。上座部仏教はパガン朝以来一貫してビルマ社会の精神的基盤であり続け、僧侶は現在も社会的に高い尊敬を受けている。パガンの仏教遺跡群やマンダレーの王宮跡は、王朝時代の栄光を伝える文化遺産として保存されている。
一方で、ビルマ族を中心とした王朝の歴史は、モン族・シャン族・カレン族など少数民族との複雑な関係をも含んでいる。征服と統合の過程で生まれた民族間の緊張は、植民地時代を経て現代に至るまで、ミャンマーの最も困難な政治課題の一つとなっているのが実情だ。