名誉革命とウィレム3世:オランダ総督からイギリス王へ

1688年の名誉革命は、イギリス史における重大な転換点であると同時に、オランダ史においても決定的な意味を持つ出来事でした。オランダ総督ウィレム3世がイギリス王となることで、かつての宿敵は同盟国へと変わったのです。

ウィレム3世の立場

ウィレム3世(1650〜1702年)は、オラニエ=ナッサウ家の当主として、1672年からオランダ連邦共和国の総督を務めていました。

オランダ総督として

1672年の「災厄の年」に総督に就任し、フランスの侵攻からオランダを守り抜きました。以後、フランスのルイ14世に対抗することが彼の生涯の課題となります。

イギリス王位継承権

母メアリーはイギリス王チャールズ1世の娘であり、ウィレムにはイギリス王位継承権がありました。さらに1677年、ジェームズ2世の娘メアリーと結婚し、王位への道が開かれます。

対フランス包囲網の構築

ウィレム3世はヨーロッパ各国と同盟を結び、フランスを包囲する外交を展開していました。

ウィレムにとって、イギリスをフランスとの戦いに引き込むことは最重要課題でした。イギリス王位獲得は、この戦略目標を達成する手段でもあったのです。

イギリスの政治状況

1685年に即位したジェームズ2世は、カトリック復興政策を推進し、議会や国教会との対立を深めていました。

1685年
ジェームズ2世即位

公然たるカトリック信者が即位し、プロテスタント勢力に警戒感が広がります。

1687年
信仰自由宣言

カトリックへの制限を撤廃する宣言を発布し、国教会聖職者の反発を招きました。

1688年6月
男子誕生

ジェームズ2世に男子が生まれ、カトリック王朝が続く可能性が現実となります。

1688年6月
招聘状

イギリスの有力者7人(「7人の不滅者」)がウィレムに介入を要請しました。

ジェームズ2世の方針

カトリック復興、絶対王政の強化、フランスとの友好

議会・国教会の懸念

プロテスタント体制の崩壊、議会の権限縮小、フランスの脅威

ウィレム3世のイギリス上陸

1688年11月、ウィレム3世は約1万5000人の軍勢を率いてイギリスに上陸しました。

オランダ艦隊がドーヴァー海峡を通過

トーベイに上陸(11月5日)

各地でジェームズ2世からの離反が相次ぐ

ジェームズ2世がフランスに亡命

この遠征は軍事的冒険でした。しかしウィレムの計算は正しく、イギリス軍の多くが無抵抗で降伏または寝返りました。ジェームズ2世は戦わずして敗北したのです。

唯一の本格的戦闘はレディングでの小規模な衝突のみだった。

ジェームズ2世は12月にロンドンを脱出し、フランスに亡命しました。ウィレムとメアリーは翌1689年2月、共同統治者としてイギリス王位に就きます。

権利の章典

1689年、議会は「権利の章典」を制定し、ウィレム3世とメアリー2世に王位を提供する条件としました。

王権の制限

議会の同意なき課税・立法の禁止、常備軍の禁止など、王権が厳しく制限されました。

議会の権限強化

言論の自由、定期的な議会召集が保障され、立憲君主制の基礎が確立されます。

カトリック排除

カトリック信者およびカトリック信者と結婚した者は王位継承権を失うと定められました。

名誉革命前

王権神授説に基づく絶対王政の傾向

名誉革命後

議会主権に基づく立憲君主制の確立

「名誉革命」という名称は、大きな流血なしに革命が達成されたことに由来します。ただし、これはイギリス本土での話であり、アイルランドとスコットランドでは激しい戦闘が行われました。

ウィレム3世の統治

ウィレム3世はイギリス王として、対フランス戦争を本格化させました。

1689年
大同盟戦争開始

イギリスがアウクスブルク同盟(大同盟)に参加し、フランスとの戦争に突入します。

1690年
ボイン川の戦い

アイルランドでジェームズ2世(フランスの支援を受けて復位を試みた)を破りました。

1694年
メアリー2世死去

共同統治者メアリーが天然痘で死去し、ウィレムが単独で統治します。

1697年
レイスウェイク条約

大同盟戦争が終結。フランスはウィレム3世をイギリス王として正式に承認しました。

外交政策の転換

イギリスは対フランス包囲網の中核となり、オランダの同盟国として行動するようになりました。

イングランド銀行の設立(1694年)

戦費調達のためにイングランド銀行が設立され、近代的な財政制度が整備されます。

オランダでの不評

ウィレムがイギリスに関心を集中したため、オランダでは不満の声も上がりました。

名誉革命のオランダへの影響

名誉革命は、オランダにとって諸刃の剣でした。

利点

最大の敵イギリスが同盟国に転換。対フランス戦争で強力な支援を得る。

欠点

ウィレム3世の関心がイギリスに移り、オランダは「ジュニア・パートナー」に転落。

ウィレム3世の下でオランダとイギリスは事実上の同君連合となりましたが、両国の関係は対等ではありませんでした。人口・経済力で勝るイギリスが次第に主導権を握り、オランダの相対的地位は低下していきます。

18世紀にはイギリスがヨーロッパの覇権国となり、オランダは二流国に転落する。

歴史的意義

名誉革命とウィレム3世の即位は、イギリス・オランダ両国、そしてヨーロッパ全体に大きな影響を与えました。

イギリスにおける立憲君主制・議会政治の確立
対フランス包囲網の完成とルイ14世の覇権阻止
英蘭同盟の形成(かつての宿敵が同盟国に)
プロテスタント勢力の団結

ウィレム3世は1702年に死去しましたが、彼が築いた英蘭協調体制はその後も継続しました。名誉革命は、イギリスを近代的な立憲国家に変えるとともに、ヨーロッパの勢力均衡を大きく変化させた歴史的転換点だったのです。