儒学(朱子学と陽明学)
孔子や孟子が創設した儒教は多くの学者に研究、解釈された後、宋になって朱子学と陽明学に結実した。どちらも「理」というものをテーマにしている。
朱子学は朱熹(しゅき)、陽明学は王陽明(おうようめい)がそれぞれ考えた。
朱子学
朱子学はこの世を理と気に分けて理気二元論を展開した。デカルトの物心二元論と異なるが、朱子学のざっくりとした理解のために理気二元論≒物心二元論ととりあえず考えよう。
朱子学にとって理とは理知の理、理性の理である。しかし当時の中国と西洋の「理性」に対する考えがどれだけ一致していたかはわからない。そして朱子学の気とは気質の気、気分の気である。
理性と感情はよく対立するものとして考えられるが、朱子学の理気二元論では理性と感情(気質)を対立させている。
朱子学は西洋哲学と科学に慣れてしまった現代人にとってわかりにくい最大の原因は、この気というものを物質とつなげているところである。
世界の物質的側面、あるいは人間の肉体的側面は気であるとされるが、デカルトの物心二元論に慣れている私たちはこのような考えをなかなか理解できない。現代人は世界を自分の内なる心の世界と、外なる物質的な世界に二分する。
しかし理気二元論はそうではなく、理は理性でもあり、世界の根本原理でもあり、気は感情でもあり、物質的でもある。
朱子学のポイントは以下の四つ。
- 理気二元論
- 性即理
- 王道政治
理気二元論は以上のとおり。性即理とは文字通り性は理であるという考え。性とは人間の本来もっている感情のこと。
この「性」は、悪にも善にもなるが、善のになるとき性は理に等しくなるという。これを性即理という。
また朱子学では覇道政治を否定し、王道政治を推奨している。これは孟子の考えを継承している。つまり王道政治という言葉と思想は朱熹が最初につくったものではない。
陽明学
陽明学も朱子学と同様「理」をあつかう。陽明学の「理」も世界の根本原理であり、人間の理性でもある。陽明学のポイントは
- 心即理
- 知行合一
の二つ。
心即理とは、人間の心は理であるという考え。つまり人間は心の働きにしたがって行動すれば、そのまま理の求めるままになるということ。
知行合一とは、いい知識があっていい行動が生まれて、いい行動によっていい知識が大成するという考え。
管理人の見解
正直、管理人は朱子学と陽明学がとても苦手です。さまざまな文献を読みましたが、頭になかなか入ってきません。私の脳みそがデカルトとロックに支配されているからでしょうか?
朱子学と陽明学はいわゆる「理学」に属しますが、この理学のあつかう「理」がなにをさしているのかわからないのです。「天地のことわり」とは物質が落下する原理でしょうか? 地球が回る原理でしょうか? それとも物を盗んではいけないという原理でしょうか?
科学上のものと社会上のものをまとめて、それらの根本にある普遍的な原理を彼らは「理」と考えたのでしょうか?
数々の文献を読むかぎりそのようにイメージしましたが、そもそも理学の学者たちがデカルトなどと同じように自然と社会を切り離していたようにも思えないため、現代人はこの二つ(自然と社会)のフィルターをとって、同一のように考えたほうが理解しやすいかもしれませんね。
また朱子学の気と陽明学の心という言葉も気になります。気があったり性があったり心があったり、人間性をしめすものの言葉が多いため、ここも理解の難しさの原因となっています。