高校倫理基礎問題 実存主義(キルケゴールとニーチェからサルトルまで)
問題
- キルケゴールは美的実存や倫理的実存の絶望的な状況を( )と呼び、それを抜けるためには宗教的実存にならなければいけないと説いた。
- ニーチェはキリスト教的な道徳を( )と批判した。
- ニーチェのニヒリズムを表す有名な言葉に( )がある。神を信じていた者はこの言葉を突きつけられた時、深く絶望して自分の存在が無価値になったと思うようになってしまう。
- ペシミズムの実存主義哲学者として( )が有名である。
- ヤスパースが掲げた( )とは、苦悩、罪、死など回避不可能な不幸な状況をさし、真正面からこれに向き合うことによって実存への道が開かれるとした。
- ハイデガーが唱えた( )という概念は、世界の中における自分、世界の様々な事象と関わりを持つ自分を意味する。
- サルトルは実存は( )に先立つと主張した。
- キルケゴールは「私」という実存の真理を( )といい、これをなによりも重視した。
- 神の前に立つ( )を宗教的実存という。ここで『神』とはキリスト教的な『神』である。
- 善悪の彼岸は( )が著した。
- サルトルは社会的な関わり、つまり( )を重視し、各人は社会を変えられる責任ある存在とした。
- ヤスパースは、実存の交わりは( )であるべきだと主張し、暴力的な戦いは排除した。
- 人間は社会の歯車であり、本来の人間性を失っているという考えを( )という。
- エラン・ヴィタールという言葉を用いて生物の進化を説明した哲学者は( )。
- ニーチェはこの世は( )であり、生は無意味に繰り返されるとした。
- ハイデガーは自分を見失った存在を( )と呼んだ。
- ハイデガーは死を意識するように唱えた。自分と他人の区別を失った人たちは、自らの運命である死を自覚することで、自分が( )であると気づくのだ。
- サルトルは無神論的な立場から人間を自由な存在であるとした。しかし自由だからこそ、自分のあり方を自分で決める必要があり、この責任ある状態を( )と皮肉った。
- 永劫回帰の世界を受け止めて、( )をもって生きていく強い存在を( )という。
- ヤスパースは、人は限界状況において( )と出会うとした。
解答
- 死に至る病
- 奴隷道徳
- 神は死んだ
- ショーペンハウアー
- 限界状況
- 世界内存在
- 本質
- 主体的真理
- 単独者
- ニーチェ
- アンガージュマン
- 愛し合いながらの戦い
- 人間疎外
- ベルクソン
- 永劫回帰
- ダス・マン
- 死に至る存在
- 自由の刑
- 力への意志、超人
- 超越者
補足
キルケゴールとニーチェはとてもわかりやすい思想家ですが、ヤスパースとハイデガーが似ているようなそうでないような、少しわかりづらい思想を持っています。どちらも死という残酷な運命(ヤスパースはこれを限界状況といい、ハイデガーは死に至る存在という)を通して、実存に目覚めるとしています。
ヤスパースがハイデガーと色分けされる点は『実存の交わり』という概念です。ヤスパースは人と人の関わりあいが重要であると考えています。病気になったら誰かの助けがいるし、大切な時間を誰かと共有したいと願う。人は一人で生きていけないということを強く主張した哲学者がヤスパースです。
そしてサルトルがこの関係性をもっと広く、社会的に広げます。サルトルは各人に社会参加を求めますが、しかしその理由はヤスパース的な本質と少しずれます。人は社会を変えるだけの力を持ち、そのための責任があるからアンガージュマンを説いたのであって、ヤスパースの愛し合いながらの戦いという本質はありません。
実存主義の中ではニーチェとサルトルが最もわかりやすいかもしれません。サルトルの思想はすべて『実存は本質に先立つ』という根っこからきています。だからこそこの言葉は重い。サルトルが無神論的な立場をとっているのもこの言葉に現れています。なぜか少し見てみましょう。
サルトルの『実存は本質に先立つ』とは、人間は自分で自分を決められる存在であるということです。人間以外のモノの多くは、実は本質が実存に先立っています。あなたが今使っているスマホやパソコンを考えてください。これらは「私たちの暮らしを便利にするために生まれた」ものです。便利にするために生まれたのです。生まれてから便利なものに変化したわけでありません。
商品とはことごとく、ある思想、思惑、願望などから生まれています。「こんなものが欲しい、だから作る」という流れですね。
モノにおいて本質が実存に先立つのは、モノは人間という神に『仕えるもの』だから。仕えるものは主人のためになにかをするわけで、それをするために生まれてきます。もしここで本当に神がいたらどうでしょう? 人は神に逆らえず、神の為すがままの存在で、これはちょうどパソコンが私たちに逆らえず、私たちの為すがままの存在であることと同じですね。
しかし私たちは自分で行動できます。私たちは生まれて直後は自分が何者であるかわからず、生きていく過程で「自分とはなにか」「自分はどうするべきか」を決定していく。実存があって、本質が後からついてくる。
だからサルトルは無神論的に理論を説明します。もし神がいたら、私たちはパソコンと同じように本質の後に実存がついてくる。
サルトルの人間像は実存の後に本質を加えていく自由な存在です。自由の刑に処せられているとは、自由だからこそ自分で自分を決めないといけないということ。実存はあるが、本質はないという存在だからこそですね。この辺はかなり合理的です。そして自由には当然責任がつきまとう。自分で自分を変えてなにか問題が起きたら、それは誰のせいでもなく自分のせい。
自由はさらに社会まで広げられる。私たちの自由は社会を変える力を持ってしまっているため、社会への責任を一人ひとりが感じなければいけない。これが社会参加(アンガージュマン)の主張につながります。
問題
(1) ヤスパースは三段階の実存のうち宗教的実存に至ってようやく死に至る病から救われると説いた。
(2) サルトルは、自己のあり方を他社に委ねる現代人の性質を批判し、本来の自己を取り戻すように主張した。
(3) ニーチェは永劫回帰によってこの世の悲惨な真理を説明するとともに「神は死んだ」とキリスト教の救済も否定し、人々はただ受動的に生きていくほかはないとした。
(4) サルトルは「実存は本質に先立つ」という考えから、人間は自分で自分の生き方を決定できるとした。これは無神論的立場と両立し、サルトルは無神論的実存主義者としばしば言われるゆえんである。
(5) 世界の真理を深く追求することより、自分にとっての真理を追求するほうが大切であると、キルケゴールは主体的真理の重要性を主張した。
(6) キルケゴールは死といった限界状況に直面して、人は祈るしか道はないとそれまでの倫理的実存から脱してついに宗教的実存に至るとした。
(7) ハイデガーは存在を自覚できる存在は人間以外にないから、人間は世界から脱した理性的存在であるとして、その特殊性こそが人間をして本来の自己を失わせると説明した。
(8) ショーペンハウアーはペシミズムという立場をとりながらも、人は実存に至るために悲観主義を捨てて、やがて実存の交わりを求めるようになると考えた。
(9) サルトルは人間を社会に規定される存在としながらも、同時に社会を変えられる存在とも捉えており、各人の社会参加(アンガージュマン)を求めた。
(10) キルケゴールは、神の前に立たずただ黙々と道徳的に慎ましく生きている人たちを弱者と否定し、キリスト教の奴隷道徳の結果であると考えた。
(11) ヤスパースは病気や死といった自分ではどうにもできない状況に至って本来の自己を取り戻すが、それは神の前に単独者として立つからにほかならない。
(12) ニーチェはニヒリズムを克服するために人は力への意志を持たなければいけないと述べ、この能動的意志を持った者を超人とした。
(13) ハイデガーは、人間は世界内存在であるがゆえに自由であり、自由であるがゆえに自分を自分で決定しなければいけないが、多くの人間は自分のあり方を他人に委ねてしまっているとした。
解答
(1) ×(実存を三段階に分けて宗教的実存に真理を見出した思想家はキルケゴール)
(2) ×(自己を他者によって規定すると説いたのはハイデガー)
(3) ×(ニーチェは永劫回帰の世界を積極的に受け止めて、力強く生きよと言っている。受動的という表現はニーチェの思想に反する)
(4) ○
(5) ○
(6) ×(限界状況から実存を説明したのはヤスパース)
(7) ×(ハイデガーは人間を世界内存在と説明しており、本文中の「世界から脱した」というくだりは間違っている)
(8) ×(ショーペンハウアーは実存的交わりを考えていない。実存的交わりはヤスパースが提唱した考え方)
(9) ○
(10) ×(キリスト教を奴隷道徳としたのはニーチェ。キルケゴールはキリスト教を擁護する立場をとっている)
(11) ×(単独者という言葉が間違っている。ヤスパースはキリスト教を否定しておらず、限界状況に至って神の言葉を聞くのは実存の現れとしている)
(12) ○
(13) ×(ハイデガーは自己を他者に委ねることを自由という立場から説明していない)
解説
実存主義は19~20世紀に起きた新しい思想で、キルケゴールなどの宗教的なタイプとニーチェなどの無神論的なタイプに大きく分かれる。実存主義は現代哲学の始まりの一つとされます。実存主義の主な思想家は以下のようになります。
- キルケゴール
- ニーチェ
- ヤスパース
- ハイデガー
- サルトル
このうちキルケゴールとニーチェが19世紀の思想家、ヤスパース、ハイデガー、サルトルが20世紀の思想家。特にサルトルは20世紀を代表する哲学者として非常に有名です。
キルケゴール
キルケゴールは以下の三つの「進化」を把握するとわかりやすい。
美的実存 → 倫理的実存 → 宗教的実存
この美的、倫理的、宗教的という順番がとても大事で、これを実存の三段階という。キルケゴールによると人は快楽を追求する動物であり、欲望を最大化するように生きてしまいます。しかしこの自己中心的な実存はやがて不安と絶望をもたらします。
すると人は反省し、道徳を身につけて倫理的実存に至りますが、それでもまだ人間という有限性と限界に絶望します。いくら道徳を身につけて優れた人になっても、やはりお金は欲しいと思うような状況をイメージしてください。これは人が人であるゆえんの限界であり、そこに宗教的な罪が隠されています。
こうして人は自らの罪深さを自覚し、神の前に立ちます。ここで神の前に立っているのは自分一人であり、その他の人は関係ありません。たった一人で神の前にいる自分をキルケゴールは単独者と呼んでいます。
キルケゴールはこうした思想からわかるようにキリスト教の影響を受けています。キリスト教を哲学的に解釈した思想家と言っていいでしょう。
ニーチェ
ニーチェはキルケゴールと反対に反キリスト教から入っていきます。そのためキルケゴールとニーチェはしばしばキリスト教という観点から比較されることがあります。
キリスト教的 … キルケゴール
反キリスト教的 … ニーチェ
ニーチェはキリスト教の隣人愛を奴隷道徳と呼び、この奴隷道徳が人の世界に対する価値観を無にさせて、ニヒリズムを生み出したと主張しました。ニヒリズムにおいて私たちは無価値の存在です。ニーチェは以下のポイントをおさえましょう。
- ニヒリズム
- 神は死んだ
- 永劫回帰
- 力への意志
- 超人
キリスト教は弱者の味方をする思想です。ニーチェはキリスト教の弱さへの肯定が西洋文明を退廃させた原因である(神は死んだ)と宣言しました。神は死んだという言葉は当時の文明を皮肉る形で言われたと考えられます。
私たちは弱者であり、ただ意味もなく永遠に世界をさまよっています(永劫回帰)。そこで私たちのするべきことはただ絶望するのでなく、むしろその永劫回帰という運命を積極的に受け止めて、強くたくましく生きていこうとすることだと言いました。これを力への意志といい、力への意志における理想的姿を超人と呼びました。
ヤスパース
ヤスパースはまず現実的な苦しみについて言及します。私たちは常に、死、病、争いなどに巻きこまれる可能性があります。死と病は絶対に避けられないものです。避けられない絶望(限界状況)において、人はどうふるまうのか、という点にヤスパースは注目しました。
限界状況 → 超越者の自覚と愛しながらの戦い
限界状況に直面した私たちは、有限な私たちをはるかに超えた超越者の存在を自覚することで実存としての自分を取り戻すことができます。また一方、他の実存と交わること(愛しながらの戦い)を重視しました。
ハイデガー
ハイデガーは人間を世界内存在でありひと(ダス・マン)であると考えました。
- 世界内存在 … 現実の中に生きる存在としての人
- ひと(ダス・マン) … 画一的な存在としての人
ひとは自主性を失った存在、他人は交換可能の存在です。しかし人は死を免れられない存在(死への存在)であり、死への存在を自覚することで本来の自己に目覚めることができます。
サルトル
サルトルを理解するにはこの有名な言葉を覚えましょう。
実存は本質に先立つ
今こうして生きている私、こうしようああしようと自由に判断し、行動している私というものが人間であるという考え方です。サルトルにとって人間は自由な存在ですが、ここでキリスト教的な神を一旦置いていることに注意。
一方、自由だからこそ人間は責任を持ちます。自由と責任は表裏一体のものです。サルトルは責任を持つ存在として、積極的な社会参加(アンガージュマン)の重要性を説きました。