後ウマイヤ朝とコルドバ・カリフ国:イベリア・イスラムの黄金期
756年、ウマイヤ朝の王子アブド・アッラフマーンがイベリア半島に逃れ、独立した王朝を建てました。後ウマイヤ朝(756〜1031年)は約275年にわたってアル=アンダルスを統治し、コルドバを世界有数の文化都市へと発展させます。
アブド・アッラフマーン1世の亡命
750年、東方でアッバース朝革命が起こり、ウマイヤ朝カリフ一族は虐殺されました。
アッバース家がウマイヤ朝を打倒。新王朝はバグダードを首都としました。
唯一生き残った王子アブド・アッラフマーンがイベリア半島に渡り、コルドバで独立政権を樹立します。
コルドバの大モスク(メスキータ)の建設が始まりました。現在も残るイスラム建築の傑作です。
アブド・アッラフマーン1世(在位756〜788年)は「入寇者」(アッ=ダーヒル)と呼ばれ、30年以上にわたって反乱の鎮圧と国内統一に努めました。彼はカリフを称することなく「首長」(アミール)の称号にとどまりましたが、実質的にはアッバース朝から完全に独立していました。
コルドバの繁栄
首長国は徐々に安定し、9世紀には目覚ましい発展を遂げます。
灌漑技術の導入により、オレンジ、レモン、サトウキビ、綿花など新しい作物が栽培されるようになりました。水車や用水路の建設が進みます。
地中海貿易の要衝として、コルドバには絹、香辛料、金などが集まりました。貨幣経済が発達し、市場(スーク)が賑わいます。
コルドバの人口は10世紀には50万人に達したとも言われ、当時のヨーロッパ最大の都市となりました。舗装された街路、公衆浴場、図書館、学校が整備され、パリやロンドンとは比較にならない都市文明が花開きます。
カリフ国への昇格
10世紀初頭、アブド・アッラフマーン3世は大きな決断を下しました。
形式上はアッバース朝カリフの権威を認め、「首長」を称していました。政治的には独立していても、宗教的正統性は曖昧でした。
アブド・アッラフマーン3世がカリフを宣言し、宗教的にもアッバース朝と対等の地位を主張しました。
この決断の背景には、北アフリカのファーティマ朝がカリフを称したことへの対抗意識がありました。3つのカリフ国が並立する時代が始まります。
文化の黄金期
カリフ国時代のコルドバは、学問と芸術の一大中心地となりました。
コルドバの図書館には40万冊を超える蔵書があったとされ、ヨーロッパ中の学者が知識を求めてこの地を訪れました。キリスト教徒の聖職者も、アラビア語の文献を学ぶためにコルドバに留学しています。
三文化の共存
後ウマイヤ朝の特徴として、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒の共存が挙げられます。
イスラム支配下で信仰を保ったキリスト教徒。独自の典礼様式を発展させ、アラビア語を日常的に使用しました。
イベリア半島のユダヤ教徒。商業や金融、医学の分野で活躍し、宮廷にも重用されました。
もちろん、これは完全な平等ではありませんでした。非ムスリムは人頭税を支払い、社会的制約もありました。しかし、同時代のヨーロッパと比較すれば、はるかに寛容な社会であったことは確かです。
カリフ国の崩壊
11世紀初頭、カリフ国は急速に衰退します。
宮廷内の権力闘争激化
ベルベル人傭兵の台頭
地方総督の自立
1031年、最後のカリフ廃位
カリフ国の崩壊後、アル=アンダルスは約30の小王国(タイファ)に分裂しました。統一されたイスラム政権の時代は終わり、キリスト教諸国による「レコンキスタ」が本格化していくことになります。
後ウマイヤ朝の遺産は、建築(メスキータ、メディナ・アサーラ)、言語(スペイン語に残るアラビア語由来の語彙)、農業技術、そして学問の伝統として、現代のスペインにも受け継がれています。