スペイン・ハプスブルク家の衰退:太陽の沈む帝国
16世紀、カール5世とフェリペ2世の時代にスペインは「太陽の沈まない国」として絶頂を迎えました。しかし、17世紀に入ると衰退が始まり、最後の王カルロス2世の死とともにハプスブルク朝は断絶します。約200年にわたるスペイン系ハプスブルク家の栄光と没落を追います。
フェリペ3世の治世
1598年、フェリペ2世が死去すると、20歳のフェリペ3世が即位しました。
国王自ら政務に励み、書類の山と格闘する勤勉な君主でした。中央集権的な支配を維持しています。
政務を寵臣(バリード)に委ね、自身は狩猟や宮廷行事に熱中しました。統治の質は明らかに低下します。
フェリペ3世の治世で最も論争的な決定は、1609年のモリスコ追放でした。モリスコとは、キリスト教に改宗したイスラム教徒の子孫のことです。
約30万人のモリスコがスペインから追放されました。彼らは農業や手工業に従事しており、この追放は特にバレンシア地方の経済に深刻な打撃を与えます。
1609年、オランダとの12年休戦協定を締結。これは事実上、オランダ独立を認めるものでした。
フェリペ4世と三十年戦争
1621年に即位したフェリペ4世は、野心的な寵臣オリバーレス伯公爵に政務を委ねました。
戦争が再開され、スペインの財政はさらに圧迫されます。
三十年戦争にフランスが参戦し、スペインは二正面作戦を強いられました。
過重な負担に耐えかねた両地域で大規模な反乱が発生します。
三十年戦争終結。スペインはオランダ独立を正式に承認しました。
オリバーレスは「諸王国連合」構想を掲げ、カスティーリャ以外の王国にも軍事負担を求めました。しかし、これは各地域の特権を侵害するものであり、カタルーニャとポルトガルの反乱を招きます。
帝国の縮小
17世紀後半、スペインは次々と領土を失っていきました。
1640年:ポルトガル独立(1668年正式承認)
1648年:オランダ独立承認
1659年:ピレネー条約でフランスに領土割譲
1678年:ナイメーヘン条約で南ネーデルラント一部喪失
1659年のピレネー条約は、フランスとの戦争に敗北した結果でした。ルシヨン、アルトワなどの領土を割譲し、さらに王女マリア・テレサをルイ14世に嫁がせることになります。この婚姻が後のスペイン継承戦争の伏線となりました。
カルロス2世の悲劇
1665年、わずか4歳でカルロス2世が即位しました。彼はスペイン系ハプスブルク家の近親婚の影響を色濃く受けた人物でした。
顎の奇形(ハプスブルク顎)、発育不全、頻繁な病気に悩まされました。成人後も自力で食事をとることが困難だったとされます。
8歳まで歩けず、読み書きの習得も遅れました。政務への関与は極めて限定的でした。
2度の結婚にもかかわらず子供に恵まれず、ハプスブルク家の断絶が確実視されました。
カルロス2世は「呪われた王」(エル・エチサード)と呼ばれ、その不妊は悪魔の呪いのせいだと信じられていました。宮廷では悪魔祓いの儀式まで行われています。
経済と社会の衰退
17世紀のスペインは、経済的にも深刻な危機に直面していました。
カスティーリャの人口は17世紀を通じて約20%減少したとも言われます。かつて栄えた毛織物工業は衰退し、フランドルやイギリスの製品に市場を奪われました。国家は6度も破産宣告を行っています。
後継者争いの始まり
カルロス2世の健康状態が悪化するにつれ、ヨーロッパ列強は後継者問題に注目し始めました。
神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、同じハプスブルク家として継承権を主張しました。
ルイ14世の妻マリア・テレサはフェリペ4世の娘であり、フランスもまた継承権を主張します。
1700年11月1日、カルロス2世は死去しました。遺言ではフランスのアンジュー公フィリップ(後のフェリペ5世)が後継者に指名されていましたが、これをきっかけにスペイン継承戦争が勃発することになります。
スペイン系ハプスブルク家の約200年は、世界帝国の建設から衰退、そして断絶という劇的な軌跡を描きました。その衰退の原因は、近親婚による王家の退化、過大な帝国の維持コスト、そして時代の変化に対応できなかった政治・経済構造にありました。