スピンとパウリ行列:古典にはない量子固有の自由度
軌道角運動量は粒子が空間を動き回ることで生じる回転の量であり、古典力学にもその対応物がある。しかし電子には、空間的な運動とは無関係にもう一つの角運動量が備わっている。これがスピンであり、量子力学に固有の自由度として古典的な描像では説明できない。
スピンの発見
1922 年、シュテルン=ゲルラッハの実験で銀原子のビームが不均一磁場中で 2 本に分裂することが観測された。軌道角運動量だけでは 本(奇数本)に分裂するはずであり、2 本への分裂は説明がつかない。
1925 年、ウーレンベックとハウトスミットは、電子が固有の角運動量を持ち、その量子数が であると提唱した。 なので、磁場中で 2 つの状態に分かれることが自然に説明できる。
整数値()のみ取る。波動関数の一価性から導かれる制約。
半整数値()も許される。電子は を持つ。空間の波動関数とは無関係。
ここで注意すべきは、「電子が自転している」という古典的なイメージは正しくないということである。電子を古典的な荷電球と見なして自転の角運動量が になるよう回転速度を計算すると、表面速度が光速を超えてしまう。スピンは古典的回転の量子版ではなく、本質的に量子力学的な性質にほかならない。
スピンの数学的記述
軌道角運動量の場合、状態は波動関数 という無限次元の関数空間で記述された。一方、スピン の状態空間は2 次元の複素ベクトル空間で済む。状態は 2 成分の列ベクトル(スピノル)で表される。
軸方向のスピン上向き状態()と下向き状態()を基底に取ると
となり、一般のスピン状態はこれらの重ね合わせ で書ける。
パウリ行列
スピン演算子 は、軌道角運動量と同じ交換関係
を満たす必要がある。 の場合、この交換関係を 2×2 行列で実現するのがパウリ行列である。
スピン演算子はこれらを使って と表される。
| 成分のスピン反転を行う | |
| 位相を伴うスピン反転を行う | |
| スピンの上下を区別する(対角行列) |
パウリ行列は次の重要な代数的性質を持っている。
特に反交換関係は、後にディラックが相対論的量子力学を構築する際に本質的な役割を果たすことになる。
と の固有値
軌道角運動量と同様に、 と の同時固有状態を考える。
なので、スピン の粒子に対して の固有値は常に であり、 の固有値は の 2 通りとなる。
。スピンが 軸正方向を「向いている」状態。
。スピンが 軸負方向を「向いている」状態。
ただし軌道角運動量の場合と同様、 と は不確定であり、スピンが文字通り特定の方向を「向いている」わけではない。 状態で を測定すると、 と がそれぞれ 50% の確率で得られる。
磁場中のスピン
電子のスピンは磁気モーメント を生み出す。ここで は電子の 因子である。均一な磁場 の中に置かれた電子のハミルトニアンは
となる。ここで はラーモア振動数と呼ばれる。エネルギー固有値は
であり、磁場によってスピン上向きと下向きのエネルギーが分裂する。これがゼーマン効果の最も単純な例である。
スピンの歳差運動
初期状態を 軸方向にスピンが向いた状態
とすると、シュレーディンガー方程式の時間発展により
となる。 を計算すると
が得られ、スピンの期待値が 軸まわりにラーモア振動数 で歳差運動することがわかる。一方 は時間によらず一定である。
磁場 を 方向に印加
と のエネルギーが分裂
重ね合わせ状態のスピン期待値が 軸まわりに歳差運動
この歳差運動は古典的な磁気モーメントの歳差と同じ振動数を持っているが、量子力学では の測定値が常に のどちらかであり、連続的な傾きを持たない点が本質的に異なる。核磁気共鳴(NMR)や磁気共鳴画像法(MRI)は、この量子的な歳差運動を利用した技術である。
スピン の粒子が 状態にあるとき、 を測定した結果として正しいものはどれか?
- 必ず が得られる
- と がそれぞれ 50% の確率で得られる
- が得られる
- 測定不可能である
∣↑⟩ は S^z の固有状態であって S^x の固有状態ではない。∣↑⟩=21(∣Sx=+⟩+∣Sx=−⟩) と展開されるため、Sx の測定では ±ℏ/2 が等確率で出現する。