いつから東フランク王国はドイツになった?

「ドイツ(Deutschland)」の語源は古高ドイツ語の「diutisc」で、これは「民衆の言葉」を意味しました。最初は言語的な区別として使われ、ラテン語に対する民衆語を指していました。

8世紀後半から9世紀にかけて、フランク王国内でラテン語を話さない東方の人々を指して「テウトニクス(Teutonicus)」という表現が使われ始め、これが後の「ドイチュ(deutsch)」の起源となりました。

古高ドイツ語「diutisc」から発展した、民衆の言葉を話す人々を指す用語。

政治的実体としての変遷

東フランク王国から「ドイツ」への移行は、以下のような段階を経ました。

843
ヴェルダン条約

フランク王国が東・中・西に分割され、東フランク王国が成立。この時点ではまだ「東フランク王国」と呼ばれていた。

911
コンラート1世即位

東フランク王国でカロリング朝が断絶し、フランケン公コンラート1世が選出される。この頃から「レグヌム・テウトニコルム(ドイツ人の王国)」という表現が現れ始める。

919
ハインリヒ1世即位

ザクセン朝の始まり。オットー朝とも呼ばれ、この王朝の下で「ドイツ王国」としての性格が強まる。

962
神聖ローマ帝国成立

オットー1世が皇帝として戴冠。正式名称は「神聖ローマ帝国」だが、その中核部分は「ドイツ王国」と認識されるようになる。

名称の定着過程

政治的・文化的な変化とともに、呼称も徐々に変化していきました。

東フランク王国(Ostfrankenreich)

ドイツ人の王国(Regnum Teutonicorum)

ドイツ王国(Deutsches Königreich)

神聖ローマ帝国ドイツ王国

決定的な転換期

最も重要な転換点は10世紀から11世紀にかけて。

911年のコンラート1世即位

カロリング朝の血統が途絶え、純粋にドイツ系の王朝が始まる。「レグヌム・テウトニコルム」の表現が公文書に現れ始める。

962年の神聖ローマ帝国成立

オットー1世の皇帝戴冠により、東フランク王国は神聖ローマ帝国の中核となり、「ドイツ王国」としてのアイデンティティが確立される。

実際には、11世紀頃までに「東フランク王国」という呼称は徐々に使われなくなり、「ドイツ王国」や「神聖ローマ帝国」という名称が一般的になりました。ただし、完全な移行には数世紀を要し、地域や文脈によって異なる呼称が併用されていた時期が長く続いたのが実情です。

現代の歴史学では、便宜上911年のコンラート1世即位を境に「東フランク王国時代」から「ドイツ王国時代」への移行点として扱うことが多くなっています。