レオポルト1世:オスマン帝国との戦いとウィーン包囲

レオポルト 1 世(在位 1658〜1705 年)は、神聖ローマ帝国が東西二方面から脅かされた危機の時代を乗り越えた皇帝です。東からはオスマン帝国、西からはフランスのルイ 14 世——2 つの強敵と同時に対峙しながら、ハプスブルク家の勢力をむしろ拡大させた手腕は高く評価されています。

即位の経緯

レオポルトはもともと聖職者になることが予定されていた次男でした。しかし兄フェルディナント 4 世が天然痘で急死したため、急遽皇帝候補に浮上します。1658 年、フランスのルイ 14 世が対立候補を推す外交的圧力の中で皇帝に選出されました。

聖職者としての教育を受けたレオポルトは、音楽と芸術を深く愛する文化人でもありました。自ら作曲を手がけ、生涯に400 曲以上の楽曲を残しています。

オペラ、宗教曲、バレエ音楽など多岐にわたり、ウィーンの宮廷文化を大いに発展させました。

しかし文化人としての顔の裏で、レオポルトは 47 年間にわたる長い治世のほぼ全期間を戦争に費やすことになります。

第二次ウィーン包囲(1683 年)

レオポルト治世最大の危機は、1683 年のオスマン帝国によるウィーン包囲でした。大宰相カラ・ムスタファ・パシャ率いるオスマン軍約 15 万がウィーンを包囲し、帝国の存亡がかかる事態に発展します。

包囲の状況

オスマン軍は 7 月 14 日からウィーンを包囲しました。守備隊はわずか 1 万数千人。レオポルト自身はウィーンを脱出してリンツに避難しており、市民や守備隊の士気への悪影響が懸念されました。

救援軍の到着

ポーランド王ヤン 3 世ソビエスキが率いる救援軍がロレーヌ公カールの帝国軍と合流し、9 月 12 日に総攻撃を開始。カーレンベルクの戦いでオスマン軍を壊滅させました。

ウィーン包囲の失敗はオスマン帝国にとって決定的な転換点となります。以後、ハプスブルク家は攻勢に転じ、ハンガリーの大部分をオスマン帝国から奪還していくことになりました。

大トルコ戦争(1683〜1699 年)

ウィーン解放を契機に、レオポルトはオスマン帝国に対する大規模な反攻を開始します。

この戦争で大きな功績を上げたのがサヴォイア公オイゲン(プリンツ・オイゲン)です。フランス生まれでありながらルイ 14 世に仕官を拒まれ、ハプスブルク家に仕えたこの将軍は、ゼンタの戦い(1697 年)でオスマン軍を壊滅させる大勝利を収めました。

1699 年のカルロヴィッツ条約により、ハンガリーの大部分とトランシルヴァニアがハプスブルク家の支配下に入ります。これは帝国の東方国境を大幅に押し広げる画期的な成果でした。

ルイ 14 世との対決

東方での戦いと並行して、レオポルトは西方でフランス王ルイ 14 世とも対峙しなければなりませんでした。

プファルツ継承戦争(1688〜1697 年)

ルイ 14 世がプファルツの継承権を主張して侵攻。レオポルトはアウクスブルク同盟を結成してフランスに対抗した

スペイン継承戦争(1701〜1714 年)

スペイン・ハプスブルク家の断絶に伴い、スペイン王位をめぐってフランスと全面戦争に突入。レオポルトは 1705 年に戦争の途中で死去した

特にスペイン継承戦争は、ハプスブルク家の運命を左右する大戦争でした。レオポルトは次男カール(後のカール 6 世)をスペイン王に据えようとしましたが、自らその結果を見届けることはかなわなかったのです。

レオポルト 1 世の遺産

レオポルトの治世は、ハプスブルク家がヨーロッパの大国として再浮上する決定的な時期にあたります。

オスマン帝国からのハンガリー奪還

ハプスブルク家の領土が東方に大幅拡大

オーストリアが中欧の大国として確立

芸術を愛する穏やかな君主でありながら、47 年間の治世のほぼすべてを戦争に費やしたレオポルト 1 世。その治世は、ハプスブルク帝国が「ドナウ君主国」として東方に重心を移していく転換期を象徴しています。