七年戦争:プロイセンとオーストリアの覇権争い
七年戦争(1756〜1763 年)は、ヨーロッパからアメリカ、インドにまで戦火が拡大した「最初の世界大戦」とも呼ばれる大戦争です。神聖ローマ帝国の文脈では、オーストリアがシュレージエン奪還を目指してプロイセンに挑んだ戦争であり、ヨーロッパの勢力均衡を決定づける転換点となりました。
外交革命
七年戦争に先立って、ヨーロッパの同盟関係が劇的に組み替えられました。これを「外交革命」と呼びます。
ハプスブルク家とブルボン家(フランス)は約 250 年にわたって敵対関係にあった。イギリスはオーストリアと同盟してフランスに対抗するのが定石だった
マリア・テレジアの宰相カウニッツが主導し、オーストリアとフランスが同盟を結ぶという前代未聞の転換が実現。イギリスはプロイセンと同盟した
カウニッツの外交戦略は明快でした。シュレージエンを奪還するには、プロイセンを孤立させる必要がある。そのためにはフランスとの和解が不可欠である、と考えたのです。
カウニッツの外交戦略
フランスとの歴史的和解(ヴェルサイユ条約)
ロシア・ザクセン・スウェーデンも対プロイセン包囲網に参加
プロイセンを四方から圧迫する体制の完成
フリードリヒ 2 世の先制攻撃
包囲網の形成を察知したフリードリヒ 2 世は、敵に準備を整えさせる前に先手を打つことを決断します。1756 年 8 月、プロイセン軍はザクセンに侵攻し、七年戦争が始まりました。
フリードリヒの戦略は、敵の連携が固まる前に各個撃破するというものでした。実際、彼はこの戦略で驚異的な勝利を重ねます。
フランス・帝国連合軍に対する大勝利。フリードリヒは巧みな機動で数的に優勢な敵軍を壊滅させ、この戦いでフランスの大陸介入は事実上終了しました。
ロスバッハからわずか 1 か月後、オーストリア軍に対して斜行戦術を駆使して大勝。フリードリヒの軍事的天才を示す代表的な戦いとされています。
プロイセンの危機
しかし戦争が長期化するにつれ、プロイセンの国力は限界に達していきます。1759 年のクーネルスドルフの戦いではロシア・オーストリア連合軍に壊滅的な敗北を喫し、フリードリヒ自身が自殺を考えるほどの絶望的な状況に追い込まれました。
プロイセンの人口はオーストリア、フランス、ロシアの合計の 10 分の 1 にすぎません。数年にわたる消耗戦は国力の差を残酷に突きつけ、「ブランデンブルク家の奇跡」だけがフリードリヒを救うことになります。
1762 年、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死し、プロイセンを崇拝するピョートル 3 世が即位してロシアが戦線から離脱した出来事。
ロシアの離脱により包囲網は崩壊し、疲弊した各国は和平に向かいます。
フベルトゥスブルク条約(1763 年)
1763 年のフベルトゥスブルク条約により、シュレージエンはプロイセン領として正式に確認されました。マリア・テレジアのシュレージエン奪還の夢はここに潰えたのです。
七年戦争の意義
シュレージエンの領有を確定させ、ヨーロッパの五大国(英・仏・墺・露・普)としての地位を不動のものにした
シュレージエンの永久喪失を受け入れざるを得なかった。以後、ドイツ圏での覇権争いでプロイセンに押される展開が続く
七年戦争は、神聖ローマ帝国内部におけるオーストリアの優位を決定的に揺るがしました。帝国は名目上オーストリアのハプスブルク家が皇帝位を保持し続けますが、実質的にはプロイセンという対等の競争相手が帝国内に確立されたことになります。
この「ドイツ二元論」は、約 100 年後の 1866 年に普墺戦争でプロイセンが最終的に勝利するまで、ドイツの政治を規定し続けることになりました。