カール6世とプラグマティッシェ・ザンクツィオン

カール 6 世(在位 1711〜1740 年)は、ハプスブルク家の男系断絶という重大な危機に直面した皇帝です。彼の治世の大半は、娘マリア・テレジアへの相続を確実にするための国際的な承認獲得に費やされました。その法的基盤となったのがプラグマティッシェ・ザンクツィオン(国事詔書)です。

カール 6 世の即位

カール 6 世はレオポルト 1 世の次男として生まれました。兄ヨーゼフ 1 世が 1711 年に男子を残さず死去したため、皇帝位を継承します。

もともとカールはスペイン継承戦争においてスペイン王位の候補者であり、1703 年から「スペイン王カルロス 3 世」を名乗っていました。しかし兄の死で皇帝位が転がり込むと、スペインとオーストリアの再統合を恐れたイギリスやオランダの支持を失い、スペイン王位の獲得は頓挫します。

最終的にユトレヒト条約(1713 年)でフランスのブルボン家がスペイン王位を獲得しました。

スペイン王位を失った代わりに、カールはスペイン領ネーデルラント、ナポリ、サルデーニャなどの旧スペイン領をハプスブルク家の支配下に置くことに成功しています。

プラグマティッシェ・ザンクツィオン

カール 6 世最大の政治的課題は、ハプスブルク家の領土を分割させることなく次世代に継承することでした。彼には息子がおらず、長女マリア・テレジアが相続人となる見込みでしたが、女性の相続にはさまざまな法的障壁がありました。

1713 年に発布されたプラグマティッシェ・ザンクツィオンは、この問題に対する回答です。

不可分原則

ハプスブルク家のすべての領土は不可分であり、分割相続は認められないと規定しました。オーストリア、ハンガリー、ボヘミアなどの領土を一体として維持するための根本法です。

女系相続の容認

男系が断絶した場合、女系による相続を認めるという画期的な規定を含んでいました。これによりマリア・テレジアの相続権に法的根拠が与えられます。

国際承認の獲得

国内法として制定するだけでは不十分でした。ヨーロッパの列強にこの取り決めを認めさせなければ、カール 6 世の死後に相続紛争が起きることは必至です。

カール 6 世は外交的な譲歩を重ねながら、主要国からの承認を取り付けていきました。

しかしこの承認獲得には大きな代価が伴いました。イギリスの承認を得るためにオーストリア東インド会社(オステンド会社)を廃止せざるを得なくなるなど、経済的・政治的な犠牲を払っています。

承認の脆さ

カール 6 世の期待

国際条約による承認を得ておけば、マリア・テレジアの相続は安泰だと考えた

プリンツ・オイゲンの警告

条約の紙切れよりも強力な軍隊と充実した国庫こそが相続を保障する、と忠告したとされる

プリンツ・オイゲンの警告は的中することになります。1740 年にカール 6 世が死去すると、プロイセン王フリードリヒ 2 世をはじめとする各国はプラグマティッシェ・ザンクツィオンの承認を反故にし、ハプスブルク領の分割を狙ってオーストリア継承戦争を引き起こしました。

カール 6 世の評価

カール 6 世は外交的には多くの譲歩を重ね、軍事力の整備をおろそかにしたという批判があります。晩年のオスマン帝国との戦争(1737〜1739 年)ではベオグラードなどプリンツ・オイゲンが獲得した領土の多くを失い、帝国の威信を損なってしまいました。

しかし、プラグマティッシェ・ザンクツィオンという法的枠組みを準備したことの意義は大きいでしょう。この文書がなければ、マリア・テレジアの相続はさらに困難なものとなっていたはずです。結果的に、ハプスブルク家の領土は分割を免れ、マリア・テレジアという傑出した統治者のもとで再建されることになったのです。