ジギスムント:フス戦争とコンスタンツ公会議
神聖ローマ皇帝ジギスムント(在位 1433〜1437 年)は、教会大分裂の解消とフス派の鎮圧という 2 つの巨大な課題に取り組んだ皇帝です。ルクセンブルク朝最後の皇帝であり、コンスタンツ公会議の開催を主導したことで知られています。
ジギスムントの出自と即位
ジギスムントはルクセンブルク朝のカール 4 世を父に持ち、ハンガリー王を経てドイツ王に選出されました。彼が即位した時代、カトリック教会は深刻な分裂状態にありました。
ローマとアヴィニョンに 2 人の教皇が並立し、後にはピサでも教皇が擁立されて 3 人の教皇が同時に存在するという異常事態が続いていた
ジギスムントの前任者ヴェンツェルは怠惰な統治で選帝侯に廃位されており、帝国の権威は著しく低下していた
このような状況下で、ジギスムントは教会と帝国の秩序回復を自らの使命と位置づけます。
コンスタンツ公会議(1414〜1418 年)
ジギスムント最大の功績は、コンスタンツ公会議の開催を実現したことです。この公会議はカトリック教会の統一を回復するために召集され、中世最大規模の国際会議となりました。
3 人の教皇をすべて退位・廃位させ、新たにマルティヌス 5 世を選出することで約 40 年間続いた分裂に終止符を打ちました。
ボヘミアの宗教改革者ヤン・フスが公会議に召喚されました。ジギスムントは安全通行証を発行していましたが、フスは異端として有罪判決を受け、1415 年に火刑に処されます。
フスの処刑は、ジギスムントの名誉に拭いがたい汚点を残しました。安全通行証を保証しておきながらその約束を守らなかったことは、広く信義違反と見なされたのです。
フス戦争(1419〜1436 年)
フスの処刑に激怒したボヘミアの民衆は大規模な反乱を起こします。これがフス戦争の始まりでした。
フス派は単なる宗教運動にとどまらず、チェコ民族意識の覚醒とも深く結びついた運動でした。彼らはドイツ人支配層に対する不満を宗教的大義のもとに結集させ、フス派十字軍に対して驚異的な抵抗を見せます。
教皇とジギスムントが組織した計 5 回の十字軍遠征のこと。いずれもフス派に撃退されました。
フス派の軍事的指導者ヤン・ジシュカは卓越した戦術家でした。彼が考案した車陣(ヴァーゲンブルク)戦術は、荷車を円形に並べて移動要塞とするもので、重装騎兵を主力とする十字軍に対してきわめて有効に機能しました。
フスの火刑(1415 年)
ボヘミア民衆の激昂と蜂起
5 回の十字軍がすべて失敗
バーゼル協約で妥協的解決(1436 年)
最終的にフス派内部が穏健派と急進派に分裂し、穏健派(ウトラキスト派)がカトリック側と妥協することでフス戦争は収束に向かいます。1436 年のバーゼル協約では、聖杯を用いた両形色の聖体拝領がボヘミアで認められるという、当時としては画期的な譲歩が実現しました。
ジギスムントの晩年と遺産
フス戦争の終結後、ジギスムントはようやくボヘミア王として認められましたが、その翌年の 1437 年に死去します。ルクセンブルク朝は断絶し、ハプスブルク家のアルブレヒト 2 世が後を継ぐことになりました。
ジギスムントの治世は、教会大分裂という危機を解決しつつも、フス戦争という新たな火種を生んだ矛盾に満ちた時代でした。しかし、フス派の抵抗が示した宗教的多元性の要求は、約 100 年後のルターによる宗教改革の先駆けとして重要な意味を持っています。