オーストリア継承戦争:マリア・テレジアの試練
1740 年、カール 6 世の死去とともにハプスブルク家の男系が断絶しました。23 歳のマリア・テレジアが相続人として立ちましたが、ヨーロッパの列強はこれを領土拡大の好機と見なします。プラグマティッシェ・ザンクツィオンの約束は次々と破られ、オーストリア継承戦争(1740〜1748 年)が勃発しました。
戦争の発端
最初に動いたのはプロイセン王フリードリヒ 2 世です。カール 6 世の死からわずか 2 か月後の 1740 年 12 月、フリードリヒは大義名分もなく富裕な工業地帯シュレージエンに侵攻しました。
フリードリヒは後に「若く野心的な君主にとって、充実した軍隊と国庫を抱えつつ名声を求めたいという欲望が開戦の動機だった」と率直に認めています。シュレージエンはオーストリアにとって最も重要な工業地帯のひとつでした。
リネン産業や鉱業が盛んで、ハプスブルク家の税収の重要な源泉となっていた地域です。
プロイセンの動きに触発されて、フランス、バイエルン、スペイン、ザクセンなどが次々とハプスブルク領の分割に乗り出します。マリア・テレジアは四面楚歌の状態に追い込まれました。
反オーストリア連合の形成
プロイセン、フランス、バイエルン、スペイン、ザクセンが連合。バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはハプスブルク家を差し置いて神聖ローマ皇帝カール 7 世に即位した
当初はイギリスとオランダのみ。マリア・テレジアはハンガリー議会に自ら赴いて支援を訴え、ハンガリー貴族の軍事援助を取り付けることに成功した
1741 年、マリア・テレジアがハンガリーのプレスブルクで議会に赴き、幼いヨーゼフを腕に抱きながら支援を訴えた場面は有名です。ハンガリー貴族たちが「我らの王のために命を捧げよう!」と叫んだとされ、この劇的なエピソードはマリア・テレジアのカリスマ性を象徴するものとして語り継がれています。
主要な戦い
戦争は複数の戦線で同時に展開されました。
戦況は一進一退でしたが、転機となったのは 1745 年のカール 7 世の死去です。バイエルンの脅威が消えたことで、マリア・テレジアは夫フランツ・シュテファンを神聖ローマ皇帝フランツ 1 世として即位させることに成功します。ハプスブルク家は皇帝位を取り戻したのです。
アーヘン条約と戦争の結果
1748 年のアーヘン条約で戦争は終結しましたが、その結果はマリア・テレジアにとって痛みを伴うものでした。
シュレージエンをプロイセンに割譲。パルマとピアチェンツァもスペイン・ブルボン家に渡りました。特にシュレージエンの喪失は経済的に大きな打撃です。
ハプスブルク家の主要領土(オーストリア、ボヘミア、ハンガリー)は維持されました。プラグマティッシェ・ザンクツィオンの核心である領土の一体性は辛うじて保たれたのです。
戦争の歴史的意義
オーストリア継承戦争は、ヨーロッパの勢力図を根本的に書き換えました。
プロイセンがシュレージエンを獲得
プロイセンがヨーロッパの大国として台頭
オーストリアとプロイセンのドイツ二強体制が確立
この戦争の最も重要な帰結は、プロイセンの大国化です。フリードリヒ 2 世はシュレージエンという富裕な地域を手に入れることで、プロイセンをヨーロッパの列強に押し上げました。以後、オーストリアとプロイセンの対立は「ドイツ二元論」と呼ばれ、19 世紀の普墺戦争まで続くことになります。
マリア・テレジアはシュレージエンの喪失を生涯忘れず、奪還を誓いました。この執念が、後の「外交革命」と七年戦争へとつながっていくのです。