新バビロニア王国とネブカドネザル2世:バビロン捕囚の時代
紀元前 626 年、カルデア人の将軍ナボポラッサルがバビロンでアッシリア帝国からの独立を宣言した。こうして成立した新バビロニア王国(カルデア王朝)は、わずか 90 年足らずの短い歴史ながら、古代オリエントの最後の輝きを放つことになる。とりわけ第 2 代王ネブカドネザル 2 世の治世は、バビロンを世界最大の都市に押し上げ、旧約聖書にも深く刻まれた時代であった。
アッシリア帝国の崩壊と新バビロニアの成立
新バビロニア王国を理解するには、まずアッシリア帝国の崩壊を知る必要がある。紀元前 7 世紀前半、アッシリアはオリエント全域を支配する空前の大帝国だった。しかしアッシュルバニパル王の死後(前 627 年頃)、帝国は急速に瓦解する。
バビロニアではカルデア人の指導者ナボポラッサルが反乱を起こし、イラン高原からはメディア王国のキュアクサレスが攻め込んだ。両者は同盟を結び、アッシリアの主要都市を次々と陥落させていく。
カルデア人のナボポラッサルがバビロンで王位に就き、アッシリアからの独立を宣言する。
メディア軍が古都アッシュルを攻略。ナボポラッサルとキュアクサレスはここで同盟を正式に締結した。
バビロニア・メディア連合軍がアッシリアの首都ニネヴェを陥落させる。アッシリア帝国は事実上崩壊した。
皇太子ネブカドネザルがエジプト・アッシリア残存勢力の連合軍をカルケミシュで撃破。シリア・パレスチナの支配権を確立する。
アッシリア帝国の旧領は、バビロニアとメディアで分割された。メソポタミア、シリア、パレスチナを新バビロニアが、イラン高原と小アジア東部をメディアが支配するという構図である。エジプトのファラオ・ネコ 2 世もシリア・パレスチナへの進出を図ったが、カルケミシュの戦いでネブカドネザルに敗れ、ナイル川以西に押し戻された。
ネブカドネザル 2 世の治世
ネブカドネザル 2 世(在位:前 605〜前 562 年)は、新バビロニア王国のみならず、メソポタミア文明史全体を通じて最も著名な王のひとりである。43 年に及ぶ長い治世のなかで、彼は軍事的征服と大規模な建設事業の両面で卓越した業績を残した。
カルケミシュの戦いの直後に父ナボポラッサルの死を知ったネブカドネザルは、急ぎバビロンに帰還して即位する。王位に就くと直ちにシリア・パレスチナの支配を固め、貢納を拒む諸国に対して容赦なく軍を送った。
シリア・パレスチナを完全に支配下に置き、エジプトの影響力を排除。ティルスを 13 年間包囲し、ユダ王国を二度にわたって征服した。
バビロンを世界最大の都市に改造。イシュタル門、空中庭園(伝承)、マルドゥク神殿エサギラ、ジッグラト・エテメンアンキなどを建設・修復した。
広大な領域を効率的に統治するため、属州制度を整備。交易路の保護と灌漑施設の維持に注力した。
ネブカドネザルの治世は、バビロニアの黄金時代と呼ぶにふさわしい。バビロンの人口は推定 20 万人に達し、古代世界最大の都市のひとつとなった。
バビロン捕囚
ネブカドネザル 2 世の名を旧約聖書に深く刻んだのが、ユダ王国に対する二度の遠征とバビロン捕囚である。
ユダ王国はエジプトの支援を頼みにしてバビロニアへの貢納を拒否した。これに対してネブカドネザルは紀元前 597 年にエルサレムを包囲・攻略し、ユダ王ヨヤキンと王族、貴族、職人など約 1 万人をバビロンに連行した。これが第一次バビロン捕囚である。
ネブカドネザルはユダ王国を滅ぼさず、傀儡王ゼデキヤを立てて属国として存続させた。しかしゼデキヤもまたエジプトと結んで反乱を企てたため、ネブカドネザルは紀元前 586 年に再びエルサレムを攻囲する。今回は徹底的な破壊が行われ、ソロモン王が建設したエルサレム神殿(第一神殿)も灰燼に帰した。
エルサレムは降伏し、王族・上流階層が連行された。都市と神殿は無傷で残された。
エルサレムは徹底的に破壊され、第一神殿も焼失。ユダ王国は完全に滅亡し、大規模な住民の強制移住が行われた。
バビロン捕囚はユダヤ民族の歴史において決定的な転換点となった。祖国と神殿を失ったユダヤ人たちは、バビロンの地で自らのアイデンティティを再構築する必要に迫られる。この経験がユダヤ教の成熟を促し、律法の研究、会堂(シナゴーグ)での礼拝、安息日の遵守といった慣行が確立されたとされている。
旧約聖書の多くの部分、とりわけ申命記史書やエレミヤ書、エゼキエル書などは、捕囚期またはその直後に編纂・改訂されたと考えられており、バビロン捕囚はユダヤ教の聖典形成にも決定的な役割を果たしている。
紀元前 586 年から前 539 年まで続いたユダヤ人のバビロニアへの強制移住。宗教的・文化的アイデンティティの再構築が進んだ時期。
バビロンの壮麗な都市建設
ネブカドネザル 2 世は軍事的征服と同等かそれ以上の情熱を、バビロンの都市建設に注いだ。彼が改造したバビロンは、古代世界の驚嘆の的となった。
都市は二重の城壁に囲まれ、外壁の総延長は約 18 キロメートルに達したとされる。北の正門であるイシュタル門は、青い彩釉煉瓦の壁面に竜(ムシュフシュ)と牡牛の浮彫が施された壮麗な建造物で、現在はベルリンのペルガモン博物館に復元展示されている。
イシュタル門から南へ延びる行列通りは、新年祭(アキートゥ祭)でマルドゥク神像が行進する聖なる道だった。通りの両側には同じく青い彩釉煉瓦のライオン像が並び、参列者を圧倒したことだろう。
イシュタル門(北の正門)
行列通り(聖なる道)
エサギラ(マルドゥク神殿)
エテメンアンキ(大ジッグラト)
エテメンアンキは「天と地の基礎の神殿」を意味するジッグラト(階段状神殿塔)で、底辺約 91 メートル四方、高さも約 91 メートルに達したと推定されている。旧約聖書の「バベルの塔」のモデルとなったとする説が有力だ。
また、ネブカドネザルがメディア出身の王妃アミュティスのために造ったとされる「バビロンの空中庭園」は、古代世界の七不思議のひとつに数えられている。ただし、この庭園が実在したかどうかについては考古学的証拠が見つかっておらず、実際にはアッシリアのニネヴェにあった庭園と混同されたとする説もある。
新バビロニア王国の急速な崩壊
ネブカドネザル 2 世の死後、新バビロニア王国は驚くほど短期間で崩壊する。後継者たちは宮廷陰謀に明け暮れ、わずか 6 年の間に 3 人の王が交代するという混乱が続いた。
最後の王ナボニドゥス(在位:前 556〜前 539 年)は異色の人物だった。バビロンの主神マルドゥクではなく月神シンを崇拝し、首都を離れてアラビア半島のテイマに 10 年間滞在するという行動をとった。この不在の間、バビロンの実務は息子のベルシャザルに委ねられている。
ナボニドゥスの宗教政策はバビロンの神官団の強い反発を招き、紀元前 539 年にアケメネス朝ペルシアのキュロス 2 世が侵攻した際、バビロンはほぼ無血で開城した。マルドゥク神官団がキュロスを「マルドゥクに選ばれた王」として歓迎したとされ、内部からの崩壊と言ってよい結末だった。
キュロスはバビロン捕囚のユダヤ人にエルサレムへの帰還を許可し、こうして約半世紀にわたる捕囚は終わりを告げる。新バビロニア王国の滅亡は、同時にメソポタミア人が自ら建てた最後の帝国の終焉でもあった。以後、この地域はペルシア、マケドニア、ローマ、そしてイスラム勢力と、常に外来の支配者のもとに置かれることになる。