公民権運動:キング牧師とアメリカの人種差別撤廃闘争
1950年代から1960年代、アメリカ南部を中心に人種隔離制度の撤廃を求める運動が広がりました。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を中心とする公民権運動は、非暴力の抵抗によって法的な人種差別を終わらせ、アメリカ社会を根本から変革しました。
ジム・クロウ体制
南北戦争後のレコンストラクション終了以来、南部では人種隔離が制度化されていました。
学校、レストラン、バス、水飲み場など、あらゆる公共施設で「白人用」「有色人種用」の分離が法律で定められていました。
識字テスト、人頭税、「祖父条項」などにより、黒人の大多数は投票できませんでした。
リンチや暴力が黒人を恐怖で支配していました。加害者が処罰されることはほとんどありませんでした。
1896年のプレッシー対ファーガソン判決で、最高裁は「分離すれども平等」の原則を合憲としていました。
ブラウン判決
1954年、歴史的な転換点が訪れました。
最高裁は、公立学校における人種隔離は憲法違反だと全員一致で判決。「分離すれども平等」の原則を覆しました。
アイゼンハワー大統領に任命された保守派と見られていたウォーレンが、全員一致の判決を導きました。
南部の政治家は「大規模な抵抗」を宣言し、判決の実施を拒否しました。
モンゴメリー・バス・ボイコット
1955年12月、アラバマ州モンゴメリーで運動が始まりました。
黒人女性ローザ・パークスがバスで白人に席を譲ることを拒否し、逮捕されました。
黒人住民がバスのボイコットを開始。26歳の牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが指導者に選ばれました。
381日間のボイコットの末、最高裁がバスの人種隔離を違憲と判断しました。
キング牧師と非暴力
キング牧師は非暴力の哲学を運動の中心に据えました。
ガンジーの影響を受け、暴力には愛と許しで対抗すると主張しました。敵を打ち負かすのではなく、その良心に訴えることを目指しました。
非暴力の抗議者に対する白人の暴力は、テレビで全国に放映され、世論を動かしました。
座り込みとフリーダム・ライド
1960年代初頭、若者たちが運動の前線に立ちました。
ノースカロライナ州で4人の黒人大学生がランチカウンターで座り込みを開始。運動は南部全域に広がりました。
人種統合されたバスで南部を旅し、隔離に挑戦しました。暴力的な攻撃を受けましたが、連邦政府の介入を引き出しました。
黒人学生ジェームズ・メレディスの入学に際し、暴動が発生。連邦軍が派遣されました。
バーミンガムとワシントン大行進
1963年、運動は頂点に達しました。
キング牧師主導の抗議運動に対し、警察は高圧放水と警察犬で対応。その映像は世界に衝撃を与えました。
1963年8月28日、ワシントン大行進に約25万人が参加。リンカーン記念堂前でキング牧師が歴史的な演説を行いました。
ケネディ大統領は公民権法案を議会に提出しました。
公民権法の成立
ケネディ暗殺後、ジョンソン大統領が法案を成立させました。
公共施設での人種差別を禁止し、雇用差別も違法としました。
識字テストなどの投票障壁を禁止し、連邦政府が選挙を監視する権限を与えました。
住宅の売買・賃貸における人種差別を禁止しました(キング牧師暗殺の1週間後に成立)。
セルマからモンゴメリーへの行進
1965年、投票権法成立の直接のきっかけとなった出来事がありました。
1965年3月7日「血の日曜日」
セルマでの行進者が警官に襲撃される
テレビ中継で全国に衝撃
ジョンソン大統領が投票権法を議会に要請
キング牧師の暗殺
1968年4月4日、テネシー州メンフィスでキング牧師が暗殺されました。
清掃労働者のストライキを支援するため滞在中のモーテルで、ジェームズ・アール・レイに射殺されました。享年39歳。
暗殺後、全米100以上の都市で暴動が発生しました。
1986年、キング牧師の誕生日が連邦祝日となりました。
運動の分岐
1960年代後半、運動は多様化していきました。
キング牧師は最後まで非暴力と統合を主張しました。
マルコムXやストークリー・カーマイケルは、より戦闘的な姿勢と黒人の自己決定を主張しました。ブラック・パンサー党も結成されます。
公民権運動の成果と限界
運動は大きな成果を上げましたが、課題も残りました。
現代への遺産
公民権運動は今日のアメリカにも影響を与え続けています。
公民権法は性差別、障害者差別など他の差別禁止にも拡大適用されました。
2008年、バラク・オバマが初のアフリカ系大統領に当選しました。
ブラック・ライブズ・マター運動は、公民権運動の精神を引き継いでいます。
キング牧師の「夢」は完全には実現していません。しかし、彼と無数の名もなき活動家たちの闘いは、アメリカをより公正な社会へと変える原動力となりました。その闘いは、今も続いているのです。