真珠湾攻撃とアメリカの第二次世界大戦参戦
1941年12月7日、日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃しました。この攻撃によりアメリカは第二次世界大戦に参戦し、世界の運命を決定づける超大国として登場します。「屈辱の日」は、アメリカの孤立主義に終止符を打った瞬間でした。
孤立主義の時代
1930年代、アメリカはヨーロッパとアジアの紛争に巻き込まれることを拒否していました。
交戦国への武器売却、融資を禁止する法律が成立しました。第一次世界大戦への参戦が間違いだったという反省からでした。
1937年の調査では、94%のアメリカ人が戦争介入に反対していました。
リンドバーグらが中心となり、参戦反対を訴える運動を展開しました。
戦争への道
しかし、ローズヴェルト大統領は次第に連合国を支援する方向に動きました。
ドイツがポーランドに侵攻。ローズヴェルトは「中立だが無関心ではいられない」と述べました。
平時としては初の徴兵制が導入されました。
「民主主義の兵器庫」としてイギリス、中国、後にソ連に軍需物資を供給する法律が成立しました。
ローズヴェルトとチャーチルが戦後の世界秩序構想を発表しました。
日米関係の悪化
太平洋では、日本との関係が急速に悪化していました。
日本の中国侵略の継続
日本の南進(仏印進駐)
アメリカによる石油禁輸
外交交渉の行き詰まり
1941年7月、日本が南部仏印に進駐すると、アメリカは石油の全面禁輸を発動しました。石油の約80%をアメリカに依存していた日本にとって、これは「座して死を待つか、戦うか」の選択を迫るものでした。
真珠湾攻撃
1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本機動部隊がハワイのオアフ島を攻撃しました。
航空母艦6隻から発進した約350機が2波にわたって攻撃。潜航艇による攻撃も同時に行われました。
戦艦8隻が沈没または大破、航空機約188機が破壊、約2,400人が死亡しました。
航空機29機、潜航艇5隻を失い、64人が死亡しました。
空母3隻は真珠湾に不在で無傷でした。これが後の反攻の基盤となります。
「屈辱の日」
翌12月8日、ローズヴェルトは議会で演説を行いました。
「1941年12月7日——この日は屈辱として記憶される日となるでしょう」という言葉で始まり、日本の「卑劣な」攻撃を非難し、宣戦布告を求めました。
上院は満場一致、下院は反対1票のみで宣戦を可決しました。反対票を投じたのは平和主義者のジャネット・ランキン議員でした。
世論の転換
真珠湾攻撃は、アメリカの世論を一夜にして変えました。
攻撃前日まで参戦反対だったアメリカ第一委員会は、即座に解散しました。
日系人の強制収容
戦争ヒステリアの中、約12万人の日系アメリカ人が強制収容されました。
ローズヴェルトが日系人を含む「敵性外国人」の強制移動を認める命令に署名しました。
カリフォルニア州、アリゾナ州などの収容所で、多くは戦争終結まで過ごしました。財産の大半を失いました。
レーガン大統領が公式に謝罪し、生存者に一人2万ドルの補償金が支払われました。
これは憲法上の権利を無視した人種差別的政策であり、アメリカ史の汚点とされています。
ドイツ・イタリアへの宣戦
日本との開戦直後、ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告しました。
1940年の日独伊三国同盟により、日本との戦争はドイツ・イタリアとの戦争を意味しました。
実際には「ヨーロッパ・ファースト」戦略を採用し、まずドイツを打倒することを優先しました。
アメリカは文字通り、世界規模の二正面作戦を戦うことになりました。
戦時動員
アメリカは空前の規模で戦争に動員されました。
1,600万人以上が軍務に服す
女性の労働力への大量参入(「リベット工ロージー」)
工業生産の急拡大(「民主主義の兵器庫」)
戦時国債の大規模発行
1943年までに、アメリカは世界最大の軍需生産国となりました。
真珠湾の意義
真珠湾攻撃は、複数の意味で歴史的転換点でした。
アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えましたが、空母と潜水艦は健在でした。日本は「眠れる巨人を起こした」のです。
孤立主義に終止符を打ち、アメリカを世界大戦の中心に引き込みました。アメリカの参戦なしに連合国の勝利は困難だったでしょう。
真珠湾をめぐる論争
攻撃については、様々な議論が続いています。
山本五十六連合艦隊司令長官は「眠れる巨人を起こし、恐ろしい決意で満たしてしまったのではないか」と述べたとされます。真珠湾攻撃は日本に短期的な勝利をもたらしましたが、最終的にはアメリカの圧倒的な工業力と人的資源の前に敗北することになったのです。