湾岸戦争と「新世界秩序」
1991年1月、アメリカは多国籍軍を率いてイラクと戦い、クウェートを解放しました。湾岸戦争は冷戦終結後最初の大規模軍事行動であり、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が唱えた「新世界秩序」の試金石となりました。
イラクのクウェート侵攻
1990年8月2日、イラク軍が隣国クウェートに侵攻しました。
イラン・イラク戦争(1980〜1988年)で疲弊したイラクは、巨額の債務を抱えていました。石油価格をめぐる対立や領土紛争がクウェートとの関係を悪化させていました。
アメリカは介入しないと誤認していた可能性があります。米大使との会談で曖昧なメッセージを受け取ったとされています。
クウェートは2日で制圧され、イラクに併合されました。
国際社会の対応
国連安保理は一連の決議を採択しました。
イラクの侵攻を非難し、即時無条件撤退を要求しました。
イラクに対する包括的経済制裁を発動しました。
1991年1月15日を撤退期限とし、それ以降は「あらゆる必要な手段」の使用を認めました。
冷戦終結により、ソ連が拒否権を行使しなかったことが国連の一致した対応を可能にしました。
「砂漠の盾」作戦
アメリカは大規模な軍事力を中東に展開しました。
サウジアラビアを防衛し、イラクへの圧力を強化すること。
ブッシュ大統領は34カ国からなる多国籍軍を組織しました。アラブ諸国の参加を得たことは政治的に重要でした。
約70万人の多国籍軍がサウジアラビアに集結しました。そのうち約54万人がアメリカ軍でした。
議会の承認
アメリカ国内でも議論が行われました。
1991年1月12日、議会は武力行使を承認しました。上院は52対47、下院は250対183で可決。
経済制裁を継続すべきだという意見、戦争の犠牲者予測(数万人)への懸念がありました。
侵略を放置すれば国際秩序が崩壊するという主張が優勢となりました。
「砂漠の嵐」作戦
1991年1月17日、空爆が開始されました。
38日間にわたる空爆で、イラクの軍事インフラ、通信網、防空網が破壊されました。
精密誘導兵器、ステルス機、巡航ミサイルなどの「ハイテク兵器」が初めて大規模に使用されました。
24時間ニュースチャンネルが戦争をリアルタイムで中継し、「リビングルームの戦争」となりました。
地上戦
1991年2月24日、地上作戦が開始されました。
多国籍軍がクウェートとイラク南部に進攻
「左フック」作戦でイラク軍を包囲
イラク軍は100時間で壊滅
2月28日に停戦
予想された激しい抵抗は起こらず、イラク軍は急速に崩壊しました。
「ハイウェイ・オブ・デス」
クウェートから撤退するイラク軍が空爆を受け、大量の死傷者が出ました。
クウェートシティからバスラへの道路で、撤退するイラク軍車列が集中攻撃を受けました。
破壊された車両と遺体の映像は世界に衝撃を与え、停戦の判断に影響したとされます。
撤退中の敵を攻撃することの是非が議論されました。
戦争の結果
湾岸戦争は短期間で終結しました。
バグダッドへ進軍しなかった理由
フセイン政権を打倒しなかったことは、後に議論を呼びました。
国連決議はクウェート解放のみを認めていました。連合の維持、占領統治の困難さ、イランとのバランスなどが考慮されました。
フセイン政権を残したことで、12年後のイラク戦争が必要になったという意見もあります。
「新世界秩序」
ブッシュ大統領は、冷戦後の国際秩序構想を示しました。
法の支配に基づく国際秩序、集団安全保障の機能、国連の積極的役割を想定していました。
侵略に対する国際社会の一致した対応は、この構想の実現可能性を示すものでした。
その後の紛争(ソマリア、ボスニア、ルワンダなど)では、同様の対応は困難でした。
湾岸戦争の遺産
この戦争は多くの影響を残しました。
湾岸戦争は「クリーンな戦争」として描かれましたが、その後遺症は長く続きました。イラクへの経済制裁は民間人に深刻な影響を与え、フセイン政権との対立は2003年のイラク戦争まで続きます。「新世界秩序」の楽観論は、その後の複雑な国際情勢の中で試練に直面することになるのです。