ニクソンとウォーターゲート事件
1972年、アメリカ政治史上最大のスキャンダルが発覚しました。ウォーターゲート事件は、単なる盗聴未遂から始まり、大統領の権力乱用、司法妨害、隠蔽工作を暴く大事件へと発展します。最終的にリチャード・ニクソンは、アメリカ史上唯一、辞任に追い込まれた大統領となりました。
事件の発端
1972年6月17日、すべては1件の侵入事件から始まりました。
ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会本部に5人の男が侵入し、逮捕されました。
逮捕された男たちは盗聴器を所持し、高額の現金を持っていました。そのうち1人は元CIA職員でした。
ニクソン政権は「三流の盗み」として関与を否定しました。
隠蔽の始まり
実際には、事件は大統領再選委員会と深くつながっていました。
5人のうち4人はキューバ系アメリカ人で、反カストロ活動家でした。彼らを指揮していたのは元CIA職員のE・ハワード・ハントと元FBI職員のG・ゴードン・リディでした。
侵入者への支払いは、大統領再選委員会の秘密資金から出ていたことが後に判明します。
ニクソンの側近たちは、事件の6日後には隠蔽工作を開始していました。
ワシントン・ポストの追及
2人の若い記者が事件を追い続けました。
ワシントン・ポスト紙の記者2人が、資金の流れや政権との関係を執拗に追跡しました。
FBI副長官マーク・フェルト(2005年に正体を公表)が匿名の情報源として記者を導きました。「金の流れを追え」という助言が有名です。
1972年大統領選挙
事件にもかかわらず、ニクソンは圧勝しました。
民主党のジョージ・マクガバンを破り、50州中49州で勝利。事件の影響は選挙にほとんど及びませんでした。
1973年1月、侵入者たちの裁判が始まりました。
判事ジョン・シリカは、被告たちが沈黙を守るよう圧力を受けていると疑いました。
上院調査委員会
1973年、事件は新たな段階に入りました。
サム・アーヴィン委員長の下、テレビ中継される公聴会が始まりました。
元大統領法律顧問ディーンが、ホワイトハウスの隠蔽工作を詳細に証言しました。
元補佐官アレクサンダー・バターフィールドが、大統領執務室での会話が録音されていたことを証言しました。
テープをめぐる戦い
録音テープが事件の鍵を握ることになりました。
特別検察官がテープを要求
ニクソンは「行政特権」を理由に拒否
「土曜日の夜の虐殺」で特別検察官を解任
世論の怒りと新たな特別検察官任命
最高裁が全会一致でテープ提出を命令
「土曜日の夜の虐殺」
1973年10月20日、ニクソンは最後の賭けに出ました。
特別検察官アーチボルド・コックスがテープ提出を求めると、ニクソンは彼の解任を命じました。
司法長官リチャードソンと副長官ラッケルスハウスは解任命令を拒否して辞任。3番目の幹部ボークがようやく解任を実行しました。
「民主主義の危機」として国民は激怒し、弾劾を求める声が高まりました。
弾劾への道
1974年、弾劾手続きが進みました。
3つの弾劾条項(司法妨害、権力乱用、議会侮辱)を可決しました。
合衆国対ニクソン事件で、最高裁は8対0でテープ提出を命じました。
公開されたテープには、事件発覚6日後にニクソンが隠蔽を指示した会話が録音されていました。
ニクソンの辞任
共和党議員の支持も失い、ニクソンは辞任を決断しました。
テレビ演説で辞任を発表しました。「アメリカには完全な任期を務める大統領が必要だ」
フォード副大統領が第38代大統領に就任しました。
フォード大統領がニクソンに全面的な恩赦を与えました。この決定は論争を呼び、フォードの再選を困難にしました。
ウォーターゲートの教訓
事件はアメリカの政治システムに永続的な影響を与えました。
「システムは機能した」か
ウォーターゲートの評価は分かれます。
報道の自由、司法の独立、議会の監視機能が働き、法の下の平等という原則が確認されました。「システムは機能した」
恩赦によりニクソンは処罰を免れ、完全な説明責任は果たされませんでした。政治への不信感は定着しました。
現代への影響
ウォーターゲートは、政治スキャンダルの基準点となりました。
レーガン政権下のスキャンダルでも、同様の隠蔽パターンが見られました。
1998年、クリントン大統領は弾劾訴追されましたが、上院で無罪評決を受けました。
2019年と2021年の2度、弾劾訴追されました。いずれも上院で有罪とはなりませんでした。
「大統領がやれば違法ではない」というニクソンの後の発言は、権力と法の関係についての根本的な問いを投げかけています。ウォーターゲートは、民主主義において誰も法の上には立てないという原則の試金石として、今も参照され続けているのです。