インディアン強制移住法と涙の道:先住民迫害の歴史
1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領の下で「インディアン強制移住法」が成立しました。この法律に基づき、アメリカ南東部の先住民は祖先の土地を追われ、ミシシッピ川の西へ強制移住させられました。「涙の道」として知られるこの出来事は、アメリカ史における最も悲劇的な一章です。
強制移住の背景
19世紀初頭、アメリカ南東部には「文明化五部族」と呼ばれる先住民が暮らしていました。
チェロキー、チカソー、チョクトー、クリーク(マスコギー)、セミノールの5部族を指します。彼らは農業を営み、文字を持ち、憲法や政府を整備していました。
入植者たちは先住民の土地を欲しがりました。特に綿花プランテーションの拡大に伴い、南部の肥沃な土地への需要が高まります。
1828年、ジョージア州のチェロキー領内で金が発見され、入植者の土地への渇望は一層強まりました。
ジャクソンの政策
1829年に就任したジャクソン大統領は、強制移住を積極的に推進しました。
先住民は州の法律に従うか、西へ移住するかを選ぶべきだと主張しました。移住は彼らを「文明の進歩」から守る慈悲深い措置だとも述べています。
ジャクソン自身がインディアン戦争の英雄であり、先住民に対する偏見を持っていました。彼にとって先住民は「進歩」の障害でした。
インディアン強制移住法
1830年5月、議会は強制移住法を可決しました。
大統領に先住民との土地交換条約を交渉する権限を与えました。表向きは「自発的」な移住でしたが、実態は強制でした。
下院での投票は僅差(102対97)で、北部を中心に反対も多かったです。
宣教師、人道主義者、一部の政治家が反対しました。デイヴィー・クロケット下院議員は反対票を投じています。
チェロキー族の抵抗
チェロキー族は法廷闘争で抵抗しました。
最高裁はチェロキーを「国内従属国家」と定義し、訴訟当事者としての地位を認めませんでした。
最高裁のジョン・マーシャル長官は、ジョージア州法がチェロキー領内に適用されないと判断しました。
「マーシャルが判決を下した。では彼に執行させよ」と述べたとされます。大統領は判決を無視しました。
司法の判断すら無視されたことは、三権分立の危機でもありました。
涙の道
1838年から1839年にかけて、チェロキー族の強制移住が実行されました。
約7,000人の連邦軍がチェロキーの村を包囲し、住民を収容所に移送しました。家畜や財産は略奪されました。
約16,000人のチェロキーが1,600キロメートル以上の道のりを歩かされました。
飢え、寒さ、病気により、推定4,000人以上(約4分の1)が死亡しました。
チェロキー語で「私たちが泣いた場所」を意味する言葉から、この強制移住は「涙の道」(Trail of Tears)と呼ばれるようになりました。
各部族の移住
他の部族も同様の運命をたどりました。
チョクトー(1831〜1833年):約15,000人移住、数千人が死亡
クリーク(1834〜1837年):軍事的抵抗の後に強制移住
チカソー(1837〜1838年):比較的組織的に移住
セミノール(1835〜1842年):激しい抵抗戦争の後に移住
セミノール族は7年にわたるセミノール戦争でアメリカ軍に抵抗し、一部はフロリダの沼沢地に逃れて最後まで屈服しませんでした。
インディアン準州
移住先は現在のオクラホマ州にあたる「インディアン準州」でした。
「白人が住むことのない土地」「永遠に先住民のもの」と約束されていました。
しかし、この約束も長くは守られませんでした。1889年のランドラッシュでは、インディアン準州が入植者に開放されます。
1907年、インディアン準州とオクラホマ準州が統合されてオクラホマ州となり、先住民の「国家」は解体されました。
強制移住の影響
この政策は長期的な影響を残しました。
歴史的評価
現代では、強制移住は民族浄化あるいはジェノサイドとして批判されています。
「文明化」の名の下に、先住民を白人社会から「保護」する措置とされました。彼らの土地は「有効活用」されるべきだとも主張されました。
基本的人権の侵害、条約違反、文化的ジェノサイドとして非難されています。一部の歴史家は「民族浄化」という用語を使用します。
2009年、連邦議会はネイティブ・アメリカンへの公式謝罪決議を採択しました。しかし、その謝罪には法的な拘束力や賠償は含まれていませんでした。
涙の道は、アメリカ建国の理念と現実の乖離を示す出来事です。「すべての人間は平等に創られた」と宣言した国が、先住民を人間として扱わなかった歴史。この矛盾と向き合うことは、アメリカのアイデンティティを理解する上で避けて通れない課題なのです。