マニフェスト・デスティニー:西部開拓を正当化した「明白な天命」
19世紀アメリカで広まった「マニフェスト・デスティニー」(明白な天命)という思想は、アメリカ人が北米大陸全体に拡大することは神から与えられた使命だという信念でした。この思想は西部開拓を正当化し、領土拡大を推進する原動力となりました。
用語の起源
「マニフェスト・デスティニー」という言葉は1845年に登場しました。
ジャーナリストのオサリヴァンが雑誌記事でこの言葉を使いました。テキサス併合を論じる中で、「大陸全体に広がるために神に与えられた明白な天命」と表現したのです。
この表現は瞬く間に広まり、西部拡大を支持する政治家、新聞、一般市民に使われるようになりました。
ただし、この言葉が新しかっただけで、背景にある考え方はそれ以前から存在していました。アメリカ人は建国当初から、自分たちの国は特別な使命を持つと信じていたのです。
思想の構成要素
マニフェスト・デスティニーは複数の信念から成り立っていました。
この思想は崇高な理想と差別的な偏見を同時に含んでいました。「文明」を広めるという大義名分の下で、先住民やメキシコ人に対する暴力が正当化されたのです。
西部開拓の実態
1840年代、数十万人のアメリカ人が西部へ移住しました。
カリフォルニア・トレイルとオレゴン・トレイルが開かれました。
約1,000人がオレゴンに向かい、大規模移住が始まります。
ブリガム・ヤングに率いられた約1,600人がソルトレイクシティを建設しました。
カリフォルニアで金が発見され、約30万人が殺到します。
開拓者の生活
西部への旅は危険と困難に満ちていました。
オレゴン・トレイルは約3,200キロメートル。幌馬車で4〜6か月かかる過酷な旅でした。
病気(特にコレラ)、事故、悪天候、食料・水不足が主な死因でした。先住民との衝突は実際には映画ほど多くありませんでした。
1840〜1860年代に、推定2〜3万人がトレイル上で命を落としたとされています。
それでも人々は土地、金、宗教的自由、新しい人生を求めて西へ向かいました。
領土拡大の過程
マニフェスト・デスティニーの思想の下、アメリカは急速に領土を拡大しました。
1845年:テキサス併合
1846年:オレゴン条約(イギリスとの国境画定)
1848年:メキシコ割譲(カリフォルニア、ニューメキシコなど獲得)
1853年:ガズデン購入
わずか10年足らずで、アメリカは大西洋から太平洋に至る大陸国家となりました。
先住民への影響
西部開拓は先住民にとって破滅的でした。
「未開の地」に「文明」をもたらす進歩的な事業。先住民は「消えゆく人種」として同情されるか、障害として排除されました。
土地の喪失、強制移住、虐殺、条約違反が繰り返されました。バイソンの大量殺戮は平原インディアンの生活基盤を破壊します。
1830年のインディアン強制移住法に始まり、世紀末の「フロンティアの消滅」まで、先住民は組織的に土地を奪われました。
メキシコとの関係
南西部への拡大は、メキシコとの衝突を招きました。
1836年にメキシコから独立したテキサス共和国を、1845年にアメリカが併合。メキシコはこれを認めませんでした。
国境紛争から戦争に発展し、アメリカが勝利。メキシコは領土の約半分を失います。
メキシコ人は「劣等人種」とみなされ、併合された地域の住民は差別を受けました。
マニフェスト・デスティニーへの批判
当時からこの思想への批判は存在しました。
エイブラハム・リンカーンは若き下院議員として米墨戦争を批判しました。ヘンリー・デイヴィッド・ソローは戦争に抗議して納税を拒否し、投獄されています。
フロンティアの消滅
1890年、国勢調査局は「フロンティアの消滅」を宣言しました。
人口密度が1平方マイル当たり2人以上の地域がほぼ全土に広がり、「未開拓地帯の線引き」ができなくなりました。
歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナーは「フロンティア学説」を提唱し、フロンティアがアメリカの民主主義と国民性を形成したと論じました。
フロンティアの消滅後、アメリカの拡大衝動は海外へと向かい、1898年の米西戦争へとつながっていきます。
現代への遺産
マニフェスト・デスティニーの思想は、今日のアメリカにも影響を残しています。
西部開拓の物語はアメリカ神話の中核を成していますが、その裏には征服と排除の歴史があります。マニフェスト・デスティニーを理解することは、アメリカという国の光と影の両方を見つめることでもあるのです。