水素原子が 2 個集まると、水素分子 \mathrm{H}_2 になります。2 つの原子を結合させているのは電子ですが、電子が 2 個あると電子どうしの反発も扱わなければならず、式が複雑になります。そこで、水素分子から電子を 1 個取り去った水素分子イオン \mathrm{H}_2^+ から始めます。陽子 2 個と電子 1 個だけからなる、一番簡単な分子です。
陽子の質量は電子の約 1836 倍あります。電子が陽子のまわりを動くあいだ、陽子はほとんど動きません。そこで、2 つの陽子を距離 R だけ離して止めておき、電子の状態だけを解きます。これをボルン・オッペンハイマー近似といいます。R を変えながら解けば、陽子の距離ごとに分子のエネルギーが求まります。
電子は 2 つの陽子の両方から引かれます。2 つの陽子からの距離を r_A、r_B とすると、電子の位置エネルギーは V = -\dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0}\left(\dfrac{1}{r_A} + \dfrac{1}{r_B}\right) です。図の下の曲線は、2 つの陽子を通る軸の上でこれを描いたもので、陽子のところで深く下がっています。
陽子が遠く離れているとき、電子はどちらか一方の陽子のそばにいて、通常の水素原子の 1s 軌道に入っています。エネルギーは -13.6\,\mathrm{eV} です。陽子 A のそばにいる状態 \psi_A と、陽子 B のそばにいる状態 \psi_B は、エネルギーが同じで、場所だけが違う 2 つの状態です。
陽子を近づけると、2 つの 1s 軌道の裾が重なりはじめます。図の上で塗った部分がその重なりです。同時に陽子のあいだの位置エネルギーも下がり、中点の値は R が 8a_0 より短くなると -13.6\,\mathrm{eV} の線より低くなります。a_0 = 52.9\,\mathrm{pm} はボーア半径です。こうなると、電子がどちらか一方の陽子に属しているとは言えなくなります。
陽子が近いときの電子の状態を、2 つの 1s 軌道の重ね合わせ \psi = c_A\psi_A + c_B\psi_B で表します。係数 c_A、c_B は、エネルギーの期待値が一番低くなるように選びます。この方法を LCAO(原子軌道の線形結合)といいます。厳密な解ではありませんが、結合ができる理由はこれで説明できます。
2 つの陽子は区別できないので、電子が A のそばで見つかる確率と B のそばで見つかる確率は等しくなければなりません。したがって |c_A| = |c_B| です。係数を実数に取ると、残るのは同じ符号で足した \psi_+ \propto \psi_A + \psi_B と、逆の符号で足した \psi_- \propto \psi_A - \psi_B の 2 つだけです。
図の上が \psi_+、下が \psi_- です。点線はもとの 2 つの 1s 軌道、実線はその和と差です。\psi_+ は陽子のあいだでも 0 にならず、2 つの山の裾が足し合わされて、陽子のあいだの値が大きくなっています。\psi_- は中点で符号が変わり、そこに節があります。
2 つの軌道の重なりの大きさは、重なり積分 S = \int \psi_A\psi_B\,dV で表します。1s 軌道どうしでは積分が計算でき、S = e^{-R/a_0}\left(1 + \dfrac{R}{a_0} + \dfrac{R^2}{3a_0^2}\right) となります。図の R = 2.5a_0 では S = 0.46 です。電子がどこかに見つかる確率の合計を 1 にするため、\psi_\pm には \dfrac{1}{\sqrt{2(1 \pm S)}} を掛けます。
2 つの状態を重ね合わせたので、できる状態も 2 つです。\psi_+ を結合性軌道、\psi_- を反結合性軌道といいます。どちらも 1 個の原子のまわりではなく、分子全体に広がった軌道で、分子軌道と呼ばれます。
電子が見つかる確率の密度は、波動関数の 2 乗です。\psi_\pm を 2 乗すると |\psi_\pm|^2 = \dfrac{\psi_A^2 + \psi_B^2 \pm 2\psi_A\psi_B}{2(1 \pm S)} となり、離れた原子にはなかった \pm 2\psi_A\psi_B の項が現れます。2 つの軌道が重なっているところでだけ値を持つ項で、干渉項と呼ばれます。
図の点線は、電子が A のそばと B のそばに半分ずつの確率でいるとしたときの密度 \dfrac{\psi_A^2 + \psi_B^2}{2} です。結合性軌道(上)では、中点の密度がこれより 37% 高くなり、その代わり陽子の位置と外側で低くなります。反結合性軌道(下)では逆に、中点の密度が 0 になり、陽子の位置と外側で高くなります。
陽子のあいだに電子の密度があると、その負の電荷は 2 つの陽子を、どちらも中点の方へ引きます。陽子どうしは正の電荷を持つので反発しますが、あいだの電子が引く力がその反発を打ち消し、陽子は決まった距離のところでつり合います。これが共有結合です。電子は 2 つの原子に共有されています。
反結合性軌道では、陽子のあいだの密度が少なく、陽子を中点の方へ引く力が足りません。陽子の反発のほうが大きくなり、陽子は離れていきます。電子が反結合性軌道に入っていると、分子の形を保てません。
陽子にかかる力は、量子力学で電子の密度を求めたあとは、その密度を電荷の分布と見なしてクーロンの法則で計算できます。これをヘルマン・ファインマンの定理といいます。ファインマンは 1939 年に、分子の中の原子核にかかる力がすべてこの方法で求まることを示しました。結合を力で考えるときは、電子の密度がどこにあるかを見れば足ります。
分子のエネルギーは、電子のエネルギーに陽子どうしの反発のエネルギー \dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 R} を足したものです。LCAO の軌道でこれを計算すると、必要な積分がすべて R の式で書け、E_\pm(R) = E_{1s} + \dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 R} - \dfrac{J \pm K}{1 \pm S} となります。E_{1s} = -13.6\,\mathrm{eV} は水素原子の 1s のエネルギーです。
J はクーロン積分と呼ばれ、陽子 A のそばにいる電子が陽子 B から受ける引力のエネルギーです。K は交換積分と呼ばれ、2 つの軌道が重なっているときにだけ 0 でない値を持ちます。式の中で K の符号は \psi_+ と \psi_- で逆になり、\psi_+ のエネルギーを下げ、\psi_- のエネルギーを上げます。
図は、離れた \mathrm{H} と \mathrm{H}^+ のエネルギーを 0 として、E_\pm を陽子の距離 R に対して描いたものです。結合性の曲線には谷があり、一番低いところは R = 132\,\mathrm{pm}、深さは 1.76\,\mathrm{eV} です。陽子はこの距離でつり合い、これが結合の長さになります。反結合性の曲線には谷がなく、近づくほどエネルギーが上がります。
陽子を近づけすぎるとエネルギーが上がるのは、陽子どうしの反発が \dfrac{1}{R} に比例して急に大きくなるからです。陽子が遠いところでは、軌道の重なりが小さく、エネルギーはあまり下がりません。近いところでは反発のほうが大きくなります。そのあいだに、2 つがつり合う距離があります。
水素分子イオンの方程式は、陽子を止めておけば厳密に解くこともできます。厳密な解では、結合の長さは 106\,\mathrm{pm}(2.00a_0)、深さは 2.79\,\mathrm{eV} です(図の「厳密な解」の点)。LCAO は長さを 25% ほど長く、深さを 37% ほど浅く見積もりますが、谷ができること、つまり結合ができることは正しく表しています。
実験で測った \mathrm{H}_2^+ の結合エネルギーは 2.65\,\mathrm{eV} で、谷の深さより 0.14\,\mathrm{eV} 小さくなります。陽子は谷の底でも零点振動をしているので、分子のエネルギーは谷の底より零点振動のエネルギーだけ高いからです。
図は、分子軌道のエネルギーを、もとの原子の 1s 準位と並べて描いたものです。2 つの 1s 準位から、それより低い結合性軌道と、高い反結合性軌道ができます。反結合性軌道が上がる量は、結合性軌道が下がる量より大きくなります。重なり積分 S が 0 でないので、E_\pm の分母 1 \pm S が、反結合性軌道のほうで小さくなるからです。
水素分子イオン \mathrm{H}_2^+ では、1 個の電子が結合性軌道に入ります。水素分子 \mathrm{H}_2 では、2 個目の電子も結合性軌道に入ります。パウリの排他原理によって、1 つの軌道には向きが逆のスピンを持つ電子が 2 個まで入れるからです。
2 個の電子がどちらも結合性軌道に入るので、陽子のあいだの密度が増え、結合は強く、短くなります。\mathrm{H}_2 の結合の長さは 74\,\mathrm{pm}、結合エネルギーは 4.48\,\mathrm{eV} です。\mathrm{H}_2^+ の 106\,\mathrm{pm}、2.65\,\mathrm{eV} と比べると、エネルギーは 1.7 倍になります。2 倍にならないのは、2 個の電子どうしが反発するからです。
ヘリウム原子は電子を 2 個持っています。ヘリウム原子 2 個で \mathrm{He}_2 を作ろうとすると、電子は 4 個になり、結合性軌道に 2 個、反結合性軌道に 2 個が入ります。反結合性軌道の上がり方のほうが大きいので、エネルギーの合計は離れた 2 個の原子より高くなり、結合はできません。ヘリウムが単原子の気体として存在するのはこのためです。
結合性軌道の電子の数から反結合性軌道の電子の数を引いて 2 で割った値を、結合次数といいます。\mathrm{H}_2 は 1、\mathrm{H}_2^+ は \dfrac{1}{2}、\mathrm{He}_2 は 0 です。\mathrm{He}_2 から電子を 1 個取った \mathrm{He}_2^+ は結合次数が \dfrac{1}{2} になり、実際に結合したイオンとして観測されています。
窒素や酸素の分子の結合も、同じ考え方で説明できます。2p 軌道どうしからも結合性軌道と反結合性軌道ができ、エネルギーの低い軌道から順に電子を入れていくと、結合の強さや分子の性質が求まります。たとえば \mathrm{O}_2 では、最後の 2 個の電子がスピンの向きをそろえて別々の反結合性軌道に入ります。そのため液体の酸素は磁石に引きつけられます。