ルイ16世:革命に飲み込まれた最後の絶対君主

ルイ16世(在位1774年〜1792年)は、フランス革命によって王位を剥奪され、処刑された最後のブルボン朝国王です。善良で改革に前向きな面もありましたが、優柔不断な性格と時代の激流に翻弄され、悲劇的な最期を遂げました。

即位と初期の改革

ルイ16世は1754年に生まれ、祖父ルイ15世の死去により20歳で即位しました。即位直後、彼は改革派の財務総監テュルゴーを起用し、財政再建に乗り出します。

生年1754年
即位1774年(20歳)
王妃マリー・アントワネット(オーストリア皇女)
処刑1793年1月21日

テュルゴーは穀物取引の自由化、ギルド(同業組合)の廃止、道路建設の賦役(コルヴェ)廃止などの改革を試みました。しかしこれらは特権身分や既得権益層の激しい抵抗を受け、1776年にテュルゴーは解任されます。

アメリカ独立戦争への介入

1778年、フランスはアメリカ独立戦争に参戦し、イギリスと戦う植民地側を支援しました。この決定は七年戦争での屈辱を晴らす好機と見なされ、ラファイエット侯爵をはじめ多くの貴族が義勇兵として渡米します。

外交的成果

1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立が承認され、フランスは威信を回復した。

財政への打撃

戦費は約13億リーヴルに達し、すでに逼迫していた財政をさらに悪化させた。

アメリカ独立戦争への参戦は、皮肉な結果をもたらしました。自由や人民主権の理念がフランスにも広まり、革命の思想的準備となったのです。また、戦費調達のための借金が財政危機を決定的なものにしました。

財政危機と三部会召集

1780年代、フランスの財政は破綻寸前でした。歴代の財務総監(ネッケル、カロンヌ、ブリエンヌなど)が改革を試みましたが、いずれも特権身分(聖職者・貴族)への課税という根本問題に阻まれます。

1787
名士会の召集

カロンヌは特権身分への土地税を提案するため名士会を招集したが、拒否される。

1788
高等法院の抵抗

高等法院は新税の登記を拒否し、三部会の召集を要求。王権と高等法院の対立が激化した。

1789年5月
三部会開会

175年ぶりに三部会がヴェルサイユで召集される。しかし議決方法をめぐって紛糾した。

1789年5月、ルイ16世は三部会を召集しました。これは財政問題を解決するための最後の手段でしたが、身分ごとに1票を投じる従来の方式では第一・第二身分(聖職者・貴族)が第三身分(平民)を常に上回ってしまいます。この議決方法への不満が、革命の引き金となりました。

フランス革命の勃発

1789年6月、第三身分の代表は自らを「国民議会」と宣言し、憲法制定まで解散しないことを誓います(球戯場の誓い)。ルイ16世は当初これを弾圧しようとしましたが、7月14日のバスティーユ襲撃事件を受けて態度を軟化させました。

8月4日の封建的特権廃止

国民議会は封建的諸権利の廃止を宣言。貴族や聖職者の特権は名目上消滅した。

人権宣言の採択

8月26日、「人および市民の権利宣言」(フランス人権宣言)が採択される。ルイ16世はなかなか承認しなかった。

ヴェルサイユ行進

10月5日、パリの民衆(主に女性)がヴェルサイユに押しかけ、国王一家をパリに連行した。

立憲君主制の試みと挫折

1789年から1791年にかけて、ルイ16世は立憲君主として革命と共存する道を模索しました。しかし1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件が決定的な転機となります。

ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)

国王への不信感増大

共和派の台頭

王政廃止(1792年9月)

国王一家はオーストリアへの亡命を図りましたが、国境近くのヴァレンヌで発見され、パリに連れ戻されました。この事件は国王が革命を裏切ろうとした証拠と見なされ、王権への信頼は地に落ちます。

1791年9月に成立した1791年憲法のもとでルイ16世は立憲君主となりましたが、彼の本心は絶対王政の復活にありました。オーストリアやプロイセンとの秘密交渉を続け、革命への外国の干渉を期待したのです。

処刑

1792年4月に始まったオーストリア・プロイセンとの戦争で、フランス軍は当初敗北を重ねました。8月10日、パリの民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃し、ルイ16世は捕らえられます。9月には王政が廃止され、フランスは共和政に移行しました。

国民公会で行われた裁判の結果、ルイ16世は僅差で死刑判決を受け、1793年1月21日にギロチンで処刑されました。享年38歳。王妃マリー・アントワネットも同年10月に処刑されています。

ルイ16世は暴君でも無能な王でもありませんでしたが、絶対王政から近代国家への過渡期という激動の時代に対応する力を欠いていました。彼の悲劇は、旧体制(アンシャン・レジーム)の限界を象徴するものだったといえるでしょう。