ド・ゴールと第五共和政:戦後フランスの再建

シャルル・ド・ゴール(1890年〜1970年)は、自由フランスの指導者として第二次世界大戦を戦い、戦後は第五共和政を樹立してフランスを再建した政治家です。強力な大統領制を確立し、独自の外交路線を追求した彼は、20世紀フランス史において最も重要な人物の一人とされています。

軍人としての経歴

ド・ゴールは1890年にリールで生まれ、士官学校を経て職業軍人となりました。第一次世界大戦では負傷・捕虜を経験し、戦間期には機動戦と機甲部隊の重要性を説く著作を発表しますが、仏軍主流からは受け入れられませんでした。

生年1890年
出身地リール
軍歴第一次世界大戦で負傷・捕虜
著作『職業軍について』(1934年)

1940年5月、ド・ゴールは戦車旅団を率いてドイツ軍と戦い、一時的な成功を収めます。6月にはレノー内閣の国防次官に任命されましたが、休戦協定には反対し、イギリスに渡りました。

自由フランスの指導者

1940年6月18日、ド・ゴールはBBCラジオを通じて「自由フランスへの呼びかけ」を放送し、抵抗の継続を訴えました。この日は後にフランスの記念日となります。

1940年6月18日
BBCからの呼びかけ

「フランスは戦いに敗れたが、戦争に敗れたのではない」と宣言。

1943年6月
フランス国民解放委員会結成

アルジェで臨時政府の前身を組織。北アフリカを拠点に活動を本格化。

1944年8月26日
パリ凱旋

シャンゼリゼ通りを行進し、フランス解放の象徴となった。

当初、自由フランスへの参加者はわずかでしたが、ド・ゴールは連合国との交渉や植民地の取り込みによって勢力を拡大しました。彼はフランスが戦勝国として認められることに執着し、米英との関係は時に緊張をはらみます。

第四共和政と「荒野の時代」

戦後、臨時政府の首班となったド・ゴールは、1946年1月に辞任しました。彼が望んだ強力な大統領制が認められず、議院内閣制の第四共和政が成立したためです。

第四共和政(1946年〜1958年)

議会中心の政治体制。内閣が頻繁に交替し、政治的不安定が続いた。アルジェリア問題を解決できず行き詰まる。

ド・ゴールの立場

政界から引退し「荒野の時代」を過ごす。しかし自らの政党(RPF)を通じて影響力は維持した。

1958年、アルジェリア戦争の危機が深刻化すると、軍部と入植者はド・ゴールの復帰を要求しました。5月、第四共和政最後の首相に就任したド・ゴールは、新憲法の制定に着手します。

第五共和政の樹立

1958年9月28日、国民投票で新憲法が承認され、第五共和政が成立しました。ド・ゴールは大統領に就任し、強力な執行権を持つ体制を構築します。

大統領権限の強化

大統領は首相の任命権、議会解散権、非常大権を持ち、外交・国防の主導権を握った。

アルジェリア問題の解決

当初は「フランス領アルジェリア」を支持する勢力に担がれたが、1962年にアルジェリア独立を承認。軍の反乱を抑え込んだ。

独自外交の追求

NATO軍事機構からの脱退(1966年)、中国承認(1964年)など、米国から独立した外交路線を展開した。

1962年には憲法改正により大統領の直接選挙制が導入され、大統領の正統性がさらに強化されました。この体制は今日まで基本的に維持されています。

外交と「フランスの偉大さ」

ド・ゴールは「フランスの偉大さ」を回復することを外交の目標としました。米ソ冷戦構造の中で独自の立場を追求します。

核兵器の独自開発(1960年)

NATO軍事機構からの脱退(1966年)

独仏和解の推進(エリゼ条約、1963年)

「多極世界」構想の提唱

彼はアメリカの覇権に挑戦し、ヨーロッパの自立を主張しました。西ドイツとの和解を進める一方で、イギリスのEEC加盟には二度にわたって拒否権を発動しています。

五月危機と退陣

1968年5月、学生運動と労働者のゼネストがフランス全土に広がりました(五月危機)。ド・ゴールは一時動揺しましたが、議会を解散して6月の選挙で圧勝し、危機を乗り越えます。

しかし1969年4月、地方分権と上院改革に関する国民投票で敗北すると、ド・ゴールは直ちに辞任しました。翌1970年11月に死去し、故郷コロンベ=レ=ドゥ=ゼグリーズに埋葬されています。

ド・ゴールは現代フランスの政治制度と国際的地位の基礎を築いた人物です。彼の遺産である第五共和政体制と独立外交路線は、左右を問わず歴代大統領に引き継がれ、今日のフランスを形作っています。