ヴィシー政権とレジスタンス:占領下のフランス

ヴィシー政権(1940年〜1944年)は、ナチス・ドイツに敗北したフランスで成立した政権です。ペタン元帥を国家元首とし、ドイツへの協力(コラボラシオン)を行いました。一方、ロンドンに亡命したド・ゴール将軍は「自由フランス」を組織し、国内外でレジスタンス運動が展開されました。この時期はフランス現代史における最も論争的な時代の一つです。

フランスの敗北

1940年5月10日、ドイツ軍は西方攻勢を開始しました。フランス軍はマジノ線に頼る防御戦略をとっていましたが、ドイツ軍はアルデンヌの森を突破してこれを無力化します。

1940年5月10日
ドイツ軍西方攻勢開始

オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを経由して侵攻。

6月14日
パリ陥落

無防備都市宣言されたパリにドイツ軍が入城。

6月22日
休戦協定調印

コンピエーニュでフランスとドイツの休戦協定が調印された。

わずか6週間でフランスは敗北しました。この衝撃的な崩壊は、フランス国民と世界に大きな衝撃を与えます。

ヴィシー政権の成立

休戦協定により、フランスは北部・西部の「占領地域」とそれ以外の「自由地域」に分割されました。自由地域を統治するため、温泉保養地ヴィシーに新政権が樹立されます。

国家元首フィリップ・ペタン元帥
首相ピエール・ラヴァル
正式名称フランス国(État français)
所在地ヴィシー

1940年7月10日、国民議会はペタン元帥に全権を委任し、事実上第三共和政は終焉しました。ヴィシー政権は「フランス国」を名乗り、「労働・家族・祖国」をスローガンとする保守的・権威主義的な体制を敷きます。

対独協力(コラボラシオン)

ヴィシー政権はドイツとの「協力」(コラボラシオン)を基本方針としました。ペタンは敗北を革命の原因に求め、「国民革命」による刷新を唱えます。

ユダヤ人迫害

1940年10月、ヴィシー政府は独自のユダヤ人法を制定。ドイツの要求を超えて、ユダヤ人の公職追放や財産没収を行った。

強制労働者供出

1943年からドイツへの強制労働(STO)が実施され、約65万人のフランス人がドイツの工場で働かされた。

警察協力

1942年のヴェル・ディヴ事件では、パリ警察がユダヤ人一斉検挙を実行。約1万3千人がアウシュヴィッツに送られた。

ヴィシー政権の協力は、ドイツの強制だけでなく自発的な側面も持っていました。特にユダヤ人迫害において、フランス政府は主体的な役割を果たしたのです。

レジスタンスの展開

一方、ドイツ占領に抵抗するレジスタンス運動も展開されました。

外部レジスタンス(自由フランス)

ロンドンに亡命したド・ゴール将軍が組織。BBCを通じて抵抗を呼びかけ、植民地を基盤に連合国と協力して戦った。

内部レジスタンス

国内で活動した地下組織。共産党系、キリスト教民主系、社会党系など多様な組織が存在した。

1940年6月18日、ド・ゴールはBBCから「自由フランスへの呼びかけ」を放送し、抵抗の継続を訴えました。当初は少数派でしたが、戦況の変化とともに支持を拡大していきます。

国内レジスタンスは、情報収集、対独サボタージュ、連合軍への協力、ユダヤ人の救出など多様な活動を行いました。1943年にはジャン・ムーランがレジスタンス諸組織を統合して「全国抵抗評議会」(CNR)を結成します。

解放とヴィシーの終焉

1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を経て、フランスは解放されました。

ノルマンディー上陸(1944年6月)

パリ解放(8月25日)

ヴィシー政権崩壊

臨時政府による統治開始

8月25日、パリが解放されるとド・ゴールは凱旋し、臨時政府の首班となりました。ヴィシー政権の幹部は裁判にかけられ、ペタンは死刑判決(後に終身禁固に減刑)、ラヴァルは銃殺刑となります。

記憶の問題

戦後長らく、フランスでは「レジスタンス神話」が支配的でした。大多数のフランス人はレジスタンスを支持し、ヴィシーは少数の裏切り者による例外だったという見方です。

しかし1970年代以降、歴史研究が進むにつれて、ヴィシー政権への協力がより広範だったことが明らかになりました。1995年、シラク大統領はヴェル・ディヴ事件におけるフランス国家の責任を初めて公式に認めています。

ヴィシー時代の記憶は今日でもフランス社会で議論の対象であり、「過去との対決」は現代フランスのアイデンティティ形成において重要な課題であり続けています。