テルミドールのクーデター:恐怖政治の終焉

テルミドールのクーデター(1794年7月27日)は、恐怖政治を主導したロベスピエールを打倒した政変です。これにより約1年間続いた恐怖政治は終焉を迎え、革命は穏健化の方向に向かいました。「テルミドール」とは革命暦で7月下旬から8月中旬を指し、「熱月」と訳されます。

クーデターの背景

1794年春から夏にかけて、恐怖政治は最も激しい段階に達していました。6月10日に制定されたプレリアール22日法は裁判手続きを極度に簡略化し、以後約6週間で1,376人がパリだけで処刑されます。

法律名プレリアール22日法(1794年6月10日)
期間約6週間
パリでの処刑者約1,376人
全国の推定犠牲者約4万人

しかしこの頃、外敵の脅威は薄れつつありました。1794年6月26日のフルリュスの戦いでフランス軍がオーストリア軍に大勝し、ベルギー征服の見通しが立ったのです。戦争が好転すれば、恐怖政治を正当化する根拠も弱まります。

反ロベスピエール派の結集

国民公会の議員たちの間には、ロベスピエールへの警戒感が広がっていました。彼がいつ自分を「反革命」として告発するかわからないという恐怖が、様々な派閥を反ロベスピエールで結束させます。

平原派(穏健派)

恐怖政治に疲弊し、安定を求める中間派。議員の多数を占めていた。

旧ダントン派

ダントンの処刑(1794年4月)で恨みを持つ議員たち。ロベスピエールへの復讐を誓っていた。

過激派の残党

エベール派の粛清から生き延びた急進派。ロベスピエールの独裁に反発していた。

腐敗議員

地方での不正行為を告発されることを恐れた議員たち(タリアン、フーシェなど)。

これらの勢力は思想的には相容れない部分も多かったですが、「このままではロベスピエールに殺される」という共通の恐怖で結びついたのです。

クーデターの経過

1794年7月26日(テルミドール8日)、ロベスピエールは久しぶりに国民公会で演説を行い、「陰謀者」の存在をほのめかしました。しかし具体的な名前を挙げなかったため、多くの議員が「次は自分かもしれない」と疑心暗鬼に陥りました。

7月26日
ロベスピエールの演説

「陰謀者」の粛清を示唆するが、具体名を挙げず。多くの議員が不安を抱く。

7月27日午前
国民公会の反撃

サン=ジュストの演説が遮られ、ロベスピエールへの弾劾が始まる。逮捕動議が可決された。

7月27日夜
パリ・コミューンの抵抗

ロベスピエールらは一時解放されるが、国民公会派の部隊に包囲される。ロベスピエールは自殺を図り(または狙撃され)、顎を砕く重傷を負った。

7月28日
処刑

ロベスピエール、サン=ジュスト、クートンら22名がギロチンで処刑される。

7月27日の国民公会では、タリアンらがロベスピエールを激しく弾劾し、「暴君を倒せ」と叫びました。ロベスピエールは弁明しようとしましたが、「ダントンの血がお前の口を塞いでいる」と叫ばれ、逮捕決議が可決されます。

テルミドール反動

ロベスピエールの処刑後、恐怖政治は急速に収束しました。革命裁判所は廃止され、投獄されていた人々が次々と釈放されます。ジャコバン・クラブも閉鎖されました。

恐怖政治期(〜1794年7月)

公安委員会による独裁、大量処刑、最高価格令による経済統制。

テルミドール反動期(1794年7月〜)

恐怖政治の解体、ジャコバン派の弾圧、経済統制の緩和、インフレの進行。

この時期は「テルミドール反動」と呼ばれます。革命は穏健化し、ブルジョワジーの利益を重視する方向に転換しました。一方で、旧ジャコバン派やその支持者への暴力的な報復(白色テロル)も発生しています。

総裁政府へ

1795年、新たに制定された共和暦3年憲法に基づいて総裁政府が発足しました。これは5人の総裁による集団指導体制で、極端な独裁を防ぐことを意図していました。

テルミドールのクーデター(1794年7月)

恐怖政治の終焉

共和暦3年憲法(1795年)

総裁政府の成立

しかし総裁政府は左右両派の反乱や経済的混乱に悩まされ、安定した政権とはなりませんでした。最終的に1799年のブリュメール18日のクーデターでナポレオン・ボナパルトに打倒されることになります。

テルミドールのクーデターは、革命の急進的段階の終わりを画する出来事でした。以後、革命は「市民的自由」と「私有財産」を重視するブルジョワ的な方向に収斂していきます。恐怖政治の記憶は、革命の理想と現実の乖離を示す教訓として、後世に語り継がれることになりました。