ヴェルダン条約:フランク王国の三分割とフランスの原型
843年に締結されたヴェルダン条約は、カール大帝が築いたフランク帝国を三分割した条約です。この分割によって、現在のフランス・ドイツ・イタリアの原型が形成されました。ヨーロッパ史の画期として、極めて重要な意味を持っています。
帝国分裂の背景
カール大帝の死後、帝国は息子ルートヴィヒ1世(敬虔王、在位814年〜840年)に継承されました。しかしルートヴィヒは後継者問題に悩まされます。彼には前妻との間に3人の息子(ロタール、ピピン、ルートヴィヒ)がいましたが、後妻との間に生まれたカール(後の禿頭王)にも領土を与えようとしたことで、兄弟間の対立が激化しました。
ルートヴィヒ1世が帝国の相続計画を定める。長男ロタールを共同皇帝とし、他の息子には分王国を与える方針を示した。
末子カールに領土を与えるため計画を変更。これが兄弟間の対立を引き起こす。
父帝の死により、ロタール、ルートヴィヒ(ドイツ人王)、カール(禿頭王)の三者による内戦が本格化。
840年にルートヴィヒ1世が死去すると、長男ロタール1世が単独で帝位を主張し、弟たちと対立しました。841年のフォントノワの戦いでロタールは敗北し、翌842年にはルートヴィヒ(ドイツ人王)とカール(禿頭王)がストラスブールの誓約を結んで同盟を確認します。
ストラスブールの誓約
842年のストラスブールの誓約は、言語史の観点からも重要な史料です。この誓約でルートヴィヒはロマンス語(古フランス語の祖形)で、カールは古高ドイツ語で宣誓を行いました。
カールの軍勢(西フランク)に向けて、ルートヴィヒがロマンス語で同盟の誓いを述べた。現存する最古のフランス語文献とされる。
ルートヴィヒの軍勢(東フランク)に向けて、カールが古高ドイツ語で宣誓した。言語の分化がすでに進んでいたことを示す証拠。
この誓約は、フランク帝国内で言語的・文化的な分化がすでに進行していたことを示しています。西部ではラテン語から派生したロマンス語が、東部ではゲルマン語が話されており、帝国の一体性は失われつつあったのです。
ヴェルダン条約の内容
843年8月、三兄弟はヴェルダンで条約を締結し、帝国を分割しました。
現在のフランスにほぼ相当する地域。ロマンス語圏で、後のフランス王国の直接的な前身となります。
ライン川以東のゲルマン語圏。後の神聖ローマ帝国、そしてドイツの原型となりました。
イタリア北部からブルゴーニュ、ロレーヌを含む南北に細長い領域。皇帝位はロタールが保持したが、地理的なまとまりを欠いていた。
皇帝の称号はロタール1世が保持しましたが、実質的な権限は三王国でほぼ対等でした。フランク帝国の統一は完全に崩壊し、以後再統一されることはありませんでした。
その後の展開
ロタール1世の死後(855年)、中部フランク王国はさらに分割され、不安定な状態が続きました。870年のメルセン条約、880年のリブモント条約によって中部フランク王国の大部分は東西に分割吸収され、おおむね現在のフランスとドイツの境界線が形成されていきます。
ヴェルダン条約(843年)
メルセン条約(870年)
リブモント条約(880年)
仏独国境の原型形成
ただし、中部フランク王国の遺産であるロレーヌ(ロートリンゲン)地方やブルゴーニュ地方は、その後も長くフランスとドイツ(神聖ローマ帝国)の係争地となりました。この対立は近代に至るまで続き、普仏戦争や二度の世界大戦の遠因ともなっています。
歴史的意義
ヴェルダン条約は、単なる領土分割にとどまらない歴史的意義を持っています。まず、フランスとドイツという二つの国家の起源がここに求められます。言語・文化的な違いを背景とした分裂は、ヨーロッパにおける国民国家形成の出発点となりました。
また、この条約はカロリング朝の衰退を象徴しています。帝国の分裂後、各王国ではヴァイキングやマジャール人の侵入に苦しみ、王権は弱体化していきました。やがて地方の有力者が台頭し、封建社会が形成されていくことになります。