パリ・コミューン:史上初の労働者政権

パリ・コミューン(1871年3月18日〜5月28日)は、普仏戦争末期のパリで成立した革命的自治政府です。約72日間という短命に終わりましたが、「史上初の労働者政権」として社会主義運動の歴史に重要な位置を占めています。マルクスはこれを「労働者階級の政府」と評価しました。

コミューン成立の背景

1870年9月から続いたプロイセン軍によるパリ包囲は、市民に多大な苦難をもたらしました。飢餓と寒さに耐えながら抵抗を続けたパリ市民は、1871年1月の休戦と屈辱的な講和条件に強い不満を抱いていました。

国民衛兵の存在

包囲中に組織された国民衛兵は約30万人に達し、パリ市民の武装力となっていた。政府はこれを解除しようとした。

休戦条件への怒り

アルザス・ロレーヌの割譲と50億フランの賠償金という条件は、パリ市民の愛国心を傷つけた。

経済的困窮

休戦後、政府は家賃支払いの猶予を打ち切り、約束手形の期限猶予も廃止。多くの市民が破産の危機に瀕した。

臨時政府の首班ティエールは、国民衛兵が保有する大砲を回収しようとしましたが、1871年3月18日、モンマルトルでこの試みは市民の抵抗に遭って失敗します。政府軍の一部は市民側に寝返り、ティエールはヴェルサイユに退却しました。

コミューンの政策

3月26日の選挙を経て、パリ・コミューンが正式に発足しました。コミューンは約2か月の間に、いくつかの革命的な政策を打ち出します。

3月26日
コミューン選挙

パリ市民による普通選挙で、92名の評議員が選出される。

4月
社会改革

夜間のパン職人の労働禁止、質屋に入れられた品物の無償返還などが決定された。

5月
政教分離

教会と国家の分離を宣言。教会財産の没収も決定された。

コミューンの主要な政策には以下のものがありました。

政治改革

常備軍の廃止と国民衛兵への置き換え、公務員給与の労働者並みへの引き下げ、すべての役職の選挙制と罷免可能性。

社会改革

閉鎖された工場の労働者による運営、家賃の猶予、教会と国家の分離、女性の権利拡大。

これらの政策は社会主義的な理念に基づくものでしたが、コミューン内部にはブランキ派、プルードン派、ジャコバン派など様々な潮流が混在しており、統一的なイデオロギーがあったわけではありません。

「血の週間」

ヴェルサイユ政府は軍を再編し、5月21日からパリへの総攻撃を開始しました。1週間にわたる市街戦は「血の週間」と呼ばれ、凄惨な結末を迎えます。

ヴェルサイユ軍のパリ突入(5月21日)

バリケード戦と市街戦

ペール・ラシェーズ墓地での最後の抵抗

コミューン崩壊(5月28日)

政府軍は容赦なくコミューン支持者を処刑し、犠牲者は2万人から3万人に達したと推定されています。捕虜となった約4万人も軍事裁判にかけられ、多くがニューカレドニアなどに流刑されました。

コミューンの遺産と評価

パリ・コミューンは短命に終わりましたが、社会主義運動に大きな影響を与えました。

マルクスの評価「労働者階級の政府の実現」と高く評価。『フランスの内乱』で分析した。
レーニンへの影響ロシア革命の際、ボリシェヴィキはコミューンの教訓を意識的に参照した。
3月18日多くの社会主義政党がコミューン記念日として祝う。

マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを分析し、その経験から国家機構の破壊と労働者による直接統治の必要性を論じました。レーニンもコミューンを「プロレタリア独裁」の最初の試みとして重視し、その失敗の教訓をロシア革命に活かそうとしています。

一方で、コミューンには限界もありました。フランス銀行を接収しなかったこと、地方との連携が不十分だったこと、軍事的な準備が甘かったことなどが、敗北の原因として指摘されています。

歴史的評価は立場によって大きく異なります。社会主義の立場からは革命的実験として称えられる一方、保守的な立場からは無秩序と暴力の象徴として批判されてきました。いずれにせよ、パリ・コミューンは近代史における階級闘争の重要な一幕として、今日も記憶され続けています。