エルミート行列とは?固有値が実数になる理由を証明と例で
エルミート行列(Hermitian matrix)は、複素数を成分とする正方行列のうち、自分自身の共役転置に等しい行列です。行列 がエルミート行列であるとは、 が成り立つことを意味します。ここで は の共役転置(エルミート共役)で、転置を取ってから各成分を複素共役にした行列です。
成分がすべて実数の場合、共役転置は単なる転置になるので、エルミート行列の条件 は対称行列の条件 と一致します。つまり実対称行列は、エルミート行列を実数の世界に制限した特別な場合です。エルミート行列は量子力学において観測可能な物理量を表す演算子として現れ、固有値が必ず実数になるという際立った性質を持ちます。
定義と成分条件
行列 の 成分を と書くと、エルミート行列の条件 は成分ごとに次のように表せます。
対角線に関して対称な位置にある二つの成分が、互いに複素共役になっているということです。とくに対角成分では なので が要求され、複素共役して変わらない数、すなわち対角成分は必ず実数になります。
もっとも小さい例として、 のエルミート行列を書き下します。
対角成分 は実数で、非対角の と は互いに複素共役です。同じ規則は大きさが増えても変わりません。 の例も見ておきます。
対角成分 はすべて実数で、 の と の 、 の と の 、 の と の が、それぞれ複素共役の対になっています。
具体例:パウリ行列
量子力学でくり返し登場するパウリ行列は、エルミート行列のもっとも重要な具体例です。三つの 行列 からなります。
と は実対称行列なので当然エルミートで、 も対角成分が実数(ともに )、非対角の と が複素共役なのでエルミートです。これらは電子などのスピンを表す演算子として使われ、後で交換関係や固有値を通じて量子力学の骨組みに直結します。
エルミートでない例
条件を一つでも外れると、エルミート性は崩れます。たとえば次の行列を見てください。
非対角成分がどちらも で、複素共役の関係 を満たしません。共役転置を取ると 成分が に変わってしまうので、 です。
エルミートと対をなす概念が歪エルミート行列で、 を満たすものをいいます。この場合、対角成分は より純虚数(または )になります。じつは任意のエルミート行列 に対して は歪エルミートであり、両者は虚数単位 を掛けるだけで移り合います。後で見るパウリ行列の交換関係で、この関係が効いてきます。
Python で確かめる
手で確認する代わりに、数値計算でエルミート性と固有値を調べることもできます。
import numpy as np
# エルミート行列の例
A = np.array([[2, 1 + 2j],
[1 - 2j, 3]])
# 共役転置と一致するか
print(np.allclose(A, A.conj().T)) # True
# 固有値はすべて実数として返る
eigenvalues = np.linalg.eigvalsh(A)
print(eigenvalues) # [0.20871215 4.79128785]conj().T が共役転置 にあたり、allclose で を確かめています。エルミート行列専用の eigvalsh は固有値を実数として返します。この例の固有値は 、およそ と で、整数ではありませんが確かに実数です。なぜつねに実数になるのかを、このあと証明します。
幾何学的・概念的イメージ
エルミート行列は、複素ベクトル空間 上の変換として見ると、その姿がつかめます。鍵になるのは、任意のベクトル に対して作る量 です。エルミート性から、この値はつねに実数になります。
の量は共役転置を取っても自分自身なので、これは が複素共役して変わらない、すなわち実数だということです。この をエルミート形式と呼び、実ベクトルで作る二次形式 を複素数へ拡張したものにあたります。エルミート行列とは、複素空間の上で実数値の二次形式を定める行列だと言い換えられます。
もう一つの見方が対角化です。あとで示すように、エルミート行列は直交する固有ベクトルの組を持ち、それぞれの方向へ実数倍に伸び縮みさせる変換になっています。実対称行列が直交軸に沿って実数倍のスケーリングをする変換だったのと同じ絵が、複素空間でそのまま成り立ちます。固有値が実数であることは、この伸縮の倍率が回転成分を含まない純粋な拡大・縮小である、という幾何的な意味を持ちます。
エルミート行列の性質
エルミート行列は、次のような扱いやすい性質を一式そなえています。
トレースは固有値の総和、行列式は固有値の総積であり、固有値がすべて実数なので、どちらも実数になります。固有値が実数だという事実は量子力学で観測量が実数値を取ることの数学的な根拠であり、ユニタリ対角化は物理量を確定した値の状態の基底へ移す操作にあたります。以下、これらの性質のうち中心的な二つ、固有値の実数性と固有ベクトルの直交性を証明します。
固有値がすべて実数であることの証明
をエルミート行列とし、 をその固有値、 を対応する固有ベクトルとします。
両辺に左から を掛けると、次が得られます。
ここで は正の実数です。左辺は前節で見たとおり実数なので、右辺 も実数でなければならず、正の実数 で割れば が実数だと従います。
同じことを共役転置で丁寧に追うこともできます。左辺の共役転置は より不変です。
いっぽう右辺の共役転置は です。両者を等しいと置いて で割ると、次が出ます。
これは が実数であることを意味します。この議論は実対称行列(実数のエルミート行列)にもそのまま当てはまるので、実対称行列の固有値もすべて実数です。
固有ベクトルの直交性の証明
異なる二つの固有値 と、対応する固有ベクトル をとります。、 です。ここで量 を二通りに計算します。
まず を右のベクトルに作用させると です。いっぽう を使って を左のベクトルへ回すと、 が実数であること(前節)から次のようになります。
二つの結果を引き算すると が出ます。 だから 、すなわち と は直交します。異なる固有値の固有ベクトルが自動的に直交するおかげで、正規直交の固有基底を組めるわけです。
スペクトル定理と対角化
これらをまとめたのがスペクトル定理です。任意のエルミート行列 は、適当なユニタリ行列 を用いて対角化できます。
ここで は固有値 (すべて実数)を並べた対角行列で、 の各列が対応する正規直交固有ベクトルです。 がユニタリ()である点が本質で、これは固有ベクトルが正規直交にとれることの言い換えにほかなりません。
同じ内容は、固有ベクトルへの射影 を使ってスペクトル分解の形にも書けます。
エルミート行列は、直交するいくつかの方向 へ、それぞれ実数の倍率 で伸縮する変換を重ね合わせたものだ、と読めます。前節の幾何的イメージが、そのまま数式になったものです。
対角化の具体例
パウリ行列 で、固有値と固有ベクトルを実際に求めます。特性方程式は次のようになります。
したがって固有値は の二つです。 には を解いて 、 には が得られます。固有値はどちらも実数で、二つの固有ベクトルの内積を計算すると次のようになります。
確かに直交しています。これらを列に並べた行列
はユニタリで、次のように対角化されます。
スピンの文脈では、この二つの固有ベクトルが 方向のスピンの上向き・下向きの状態にあたります。
2×2 の一般形と固有値公式
のエルミート行列は、対角成分が実数・非対角が複素共役という制約から、次の一般形にしぼられます。
固有値は特性方程式 を解いて求まります。トレースが 、行列式が である点に注意すると、二次方程式の解の公式から次を得ます。
ここが見どころです。根号の中身 は、実数の平方と絶対値の平方の和なので、つねに 以上の実数です。したがって は必ず実数になり、一般の証明が では公式のうえで目に見える形で確かめられます。トレース が固有値の和、行列式 が積になっていることも、公式から読み取れます。
実対称行列との関係
実数のみを成分とする行列では、共役を取っても値が変わらないので、エルミート条件 は対称条件 と同じになります。実対称行列はエルミート行列の実数版であり、両者は多くの性質を共有しますが、対角化に使える行列の範囲が違います。
成分はすべて実数で、 を満たす。固有値は実数、固有ベクトルは実ベクトルにとれ、直交行列で対角化できる。
成分は複素数で、 を満たす。固有値は実数だが固有ベクトルは複素ベクトルになりうる。ユニタリ行列で対角化でき、実対称行列を含むより広い概念。
実対称行列の対角化には直交行列(実数の直交変換)で十分ですが、エルミート行列では成分が複素数になるぶん、ユニタリ行列という複素版の直交変換が必要になります。直交行列はユニタリ行列を実数へ制限したものなので、ここでも包含関係がそのまま対応しています。
関連する行列の地図
エルミート行列は、共役転置 をめぐるいくつかの行列クラスの中に位置づけると、性質の由来が見えます。代表的な四つを、条件と固有値の特徴で並べます。
| クラス | 条件 | 固有値 |
|---|---|---|
| エルミート | A† = A | 実数 |
| 歪エルミート | A† = -A | 純虚数 |
| ユニタリ | A† = A^-1 | 絶対値 1 |
| 正規 | A†A = AA† | 複素数一般 |
いちばん広いのが正規行列で、 を満たすものをいいます。エルミート・歪エルミート・ユニタリはどれも正規行列の特別な場合で、正規行列であることは、ちょうどユニタリ行列で対角化できることと同値です。エルミート行列の対角化可能性は、この一般的な事実の一例として理解できます。固有値が実軸・虚軸・単位円のどこに乗るかで三つが区別される様子は、複素数の 、、 という条件の行列版になっています。
正定値エルミート行列
固有値が実数だと、その符号を問えます。エルミート行列 の固有値がすべて正のとき、 を正定値といいます。これは、ゼロでない任意のベクトルに対してエルミート形式が正になること
と同値です。固有値が 以上のときは半正定値と呼びます。正定値性は、複素空間における長さの二乗のような量を定め、内積の一般化やエネルギーの正値性といった場面で中心的な役割を果たします。量子力学で状態を表す密度行列 は、半正定値なエルミート行列でトレースが という条件で特徴づけられ、その固有値は各状態が観測される確率として読まれます。
パウリ行列の交換関係
エルミート行列の積は、順序を入れ替えると一般に一致しません。パウリ行列でこのずれを測る交換子 を計算すると、きれいな関係が現れます。
同じ計算を巡回的に繰り返すと、、 が成り立ちます。三つのパウリ行列が、交換子を通じて互いに移り合う閉じた構造をなしているわけです。
ここで見落とせないのが、右辺に虚数単位 が現れる点です。一般に、二つのエルミート行列 の交換子は歪エルミートになります。実際 です。したがって そのものはエルミートではなく、 を掛けた がふたたびエルミートに戻ります。 は、まさに歪エルミートな交換子に がかかってエルミートな に戻る形です。この交換関係はスピンの角運動量代数そのものであり、二つの物理量が同時には確定できないこと(不確定性関係)の源にもなっています。
量子力学への入り口
エルミート行列の性質は、量子力学の枠組みにほぼそのまま翻訳されます。量子力学では、位置・運動量・エネルギー・スピンといった観測可能な物理量(オブザーバブル)が、エルミート演算子で表されます。測定して得られる値はその演算子の固有値であり、固有値が必ず実数であるという性質が、測定値が実数になることを保証します。
測定後に系が落ち着く状態は、対応する固有ベクトル(固有状態)です。異なる固有値の固有状態が直交することは、区別できる測定結果どうしが重ならないことにあたります。状態 における物理量 の期待値は で与えられ、これは前に見たエルミート形式なので、やはり実数になります。
は電子などのスピンを表すエルミート演算子です。固有値 がスピンの二つの向きに対応し、交換関係 が角運動量の代数を与えます。
量子状態を表す密度行列 はエルミートで、半正定値かつトレースが です。固有値は確率として解釈され、純粋状態か混合状態かもこの行列で記述されます。
こうして、エルミート行列という一つの代数的条件が、実数の測定値・直交する状態・実の期待値という量子力学の基本的な要請を、まとめて支えていることがわかります。
まとめ
エルミート行列の要点を整理します。条件は ただ一つで、そこから固有値の実数性、固有ベクトルの直交性、ユニタリ対角化がすべて導かれます。 の固有値公式では実数性が根号の中身の非負性として目に見え、パウリ行列は具体例と交換関係の両面でこの構造を体現していました。エルミート行列は実対称行列を複素数へ広げた自然な一般化であり、正定値性や交換関係を通じて、量子力学の観測量・状態・期待値の土台になっています。固有値がすべて実数だというたった一つの事実が、これほど広い射程を持つところに、エルミート行列が線型代数と物理の交点に立つ理由があります。











