接空間と接ベクトルを微分作用素として定義する
接ベクトルは矢印ではなく、関数を食べて数を返す微分作用素です。
矢印として定義しようとすると、多様体では最初の一歩でつまずきます。その事情を追ってから、正式な定義にたどり着きます。
矢印では困る理由
ユークリッド空間なら、ベクトルは 2 点を結ぶ変位でした。 という引き算に意味があるからです[1]。
多様体では点の引き算ができません。 から への道筋は言えても、それを足したり定数倍したりする方法がない[1]。
近い 2 点なら話は別です。小さな領域は平面で近似できるので、その平面の上でならベクトル空間らしくふるまいます。
ただし「小さい」という言葉に正確な意味がありません。そこでバークレーの講義録は、微小な時間 を背後に置き、変位を で割って微分にすることを勧めています[1]。
もう一つの困りごとが、外の空間への依存です。曲面を に埋めれば接平面が描けますが、その平面は曲面の外へはみ出し、別の点の接平面とぶつかります[1]。
そもそも抽象的な多様体には外の空間がありません。埋め込みに頼らない定義がほしい、という要求が出発点です[1]。
関数に注目する
点の引き算ができなくても、関数の値の引き算はできます。 に対して は実数どうしの差なので、いつでも意味を持ちます[1]。
そこで接ベクトルを、関数に作用する微分作用素として捉え直します。
は をみたす曲線です。 は実数から実数への関数なので、微分がきちんと定義できます[1]。
こうして接ベクトル は、関数の空間から実数への線形写像になります。外の空間はどこにも要りません。
曲線の同値類
曲線は の近くだけで効いていて、遠くでなにをしていても関係ありません。だから曲線そのものではなく、同じ微分を与える曲線をひとまとめにします。
2 本の曲線 が同値だという条件は、すべての関数 について次が成り立つことです[1]。
この同値類が接ベクトルの正式な定義です[1]。フランスの講義録も、点 を通るすべての曲線の速度ベクトルの集合として接空間を定義しています[3]。
5 本の曲線は、離れたところではばらばらに進みます。 での出方だけが同じ。この共通部分を取り出したものが接ベクトルです。
座標をとると基底が出る
座標 を入れて連鎖律を使うと、作用素の中身が見えます[1]。
を と書けば、 という形になります。 が基底で、 が成分。
したがって接空間 の次元は、多様体の次元と同じ です[1]。フランスの講義録も、座標曲線の速度ベクトルを並べて同じ結論を出しています[3]。
基底の記号が偏微分の記号そのものになっているのは、単なる記法の都合ではありません。基底ベクトルが本当に偏微分作用素だからです。
1 次近似という見方
もう少し高いところから眺めると、接空間は多様体に対する最良の 1 次近似です[2]。
多様体の中の曲線は、1 次で近似すると 1 点での速度ベクトルに縮みます。関数のほうは、1 次のテイラー近似によって接空間の上の線形形式に縮む[2]。
この見方では、方向微分は「線形形式を接ベクトルで評価する」という一言に収まります。微分という操作が、線形代数の言葉に置き換わる。
線形代数は、数学の中で問題を実際に解ける数少ない道具です。多様体を線形代数に落とすところに、接空間の役割があります。
座標を換えたときの成分
同じ接ベクトルでも、座標を換えれば成分が変わります。連鎖律から規則が出ます。
古い流儀では、この規則に従う量を反変ベクトルと呼びました。バークレーの講義録は、反変ベクトルとは接ベクトルのことだと述べています[1]。
反変という名前は、基底の変わり方と逆向きだという意味です。基底を 2 倍に伸ばせば、同じ矢印の成分は半分になります。
矢印そのものは座標を知りません。座標は人が持ち込んだもので、成分だけがそれに合わせて動く。
関数芽で考える理由
定義では「 の近くで定義された関数」を使いました。 全体で定義された関数に限る必要はありません。
のある近傍で一致する 2 つの関数は、 に対して同じ値を返します。微分は局所的な操作なので、遠くの値は結果に効かないためです。
そこで、近傍で一致する関数どうしを同一視した対象を考えます。これを関数芽と呼び、接ベクトルはその空間の上の作用素として定義されます[2]。
曲線の側でも同じことをしました。 の近くだけを見て、遠くの違いは無視する。両側で局所化する。それがこの定義の一貫した方針です。
微分作用素としての公理
作用素として何をみたすべきかを書き出すと、2 つだけです。
この 2 つをみたす写像を、点 における微分と呼びます。ドイツの講義録は、接ベクトルを点における関数芽の空間の上の作用素、つまり微分として捉える見方を紹介しています[2]。
驚くのは、この 2 条件だけで話が閉じることです。 次元多様体では、微分の全体がちょうど 次元のベクトル空間になります。
ライプニッツ則が効いています。定数関数に作用させると となるので 。1 次より高い項も消え、 は 1 階微分の情報しか持てません。
3 つの入口が同じ場所に着く
ここまでで定義が 3 通り出てきました。曲線の同値類、微分作用素、そして成分の組。
ドイツの講義録は、曲線芽による定義も微分による定義も、選んだ座標によらない点が長所だと述べています[2]。成分による定義だけは、座標を選んでから座標によらないことを確かめる手順になります。
接空間どうしはぶつからない
この定義のよいところは、点ごとの接空間が互いに干渉しないことです[1]。
と は別々のベクトル空間で、共通の元を持ちません。外の空間に描いた接平面が交わってしまう問題は、ここで消えます。
同時に、離れた 2 点のベクトルを比べる手段もなくなります。比べたければ、接続という追加の構造を持ち込むことになる。
球面で確かめる
具体例を見ます。 の中の単位球面 で、点 の位置ベクトルを とします。
このとき接空間 は、 に直交する部分空間と同一視できます[2]。
球面上の曲線 は をみたします。両辺を微分すると が出て、速度が位置に直交する。
ここでは外の空間を使いました。抽象的な定義と、埋め込みを使った素朴な描像が、同じものを指しているという確認です。
接束にまとめる
各点の接空間を全部集めた を接束と呼びます。 の点と、その点の接ベクトルの組の全体です。
次元多様体の接束は 次元多様体になります。位置に 個、速度に 個の自由度があるためです。
いちばん見やすい例が円周 です。各点の接空間は 1 次元なので、直線を円に沿って並べたものになります。できあがるのは無限に長い円柱。
左が円周と接ベクトル、右がそれを接束として並べたもの。円周の位置が円柱の周方向、ベクトルの大きさが高さにあたります。
どの多様体でも接束が積になるとは限りません。円周は運よく積になっただけで、球面では事情が変わります。
写像を微分する
接ベクトルを微分作用素と決めたおかげで、写像の微分も素直に書けます。 に対して を、次で定めます。
右辺は 上の関数 に を作用させたもの。左辺は の接ベクトルとしての作用です。
曲線の言葉で言えば、 の曲線を で送って の曲線にし、その速度をとる操作。2 つの定義が一致することは、連鎖律そのものです。
行列で書けばヤコビ行列になります。多様体の言葉では、その行列が座標によらない線形写像として捉え直されている。
ベクトル場と括弧積
各点に接ベクトルをなめらかに割り当てたものがベクトル場です。作用素として見ると、関数を関数へ写す演算子になります。
2 つのベクトル場を続けて作用させると、 は 2 階微分を含むのでベクトル場になりません。ところが差をとると、2 階の項が消えます。
残るのは 1 階の項だけで、これはまたベクトル場です。括弧積と呼ばれ、 と の流れがどれだけ噛み合っていないかを表します。
矢印のままではこの演算を書けません。接ベクトルを微分作用素として定義したことが、そのまま新しい構造を生んでいます。











