押し出しと引き戻し、多様体の微分写像で向きが逆になるわけ
滑らかな写像は、多様体の点を送るだけで終わりません。点に付いている接空間ごと送ります。送られた先に現れる線型写像が微分写像です。
向きは 2 つに分かれます。接ベクトルは写像と同じ向きに押し出され、余接ベクトルと微分形式は逆向きに引き戻される。同じ 1 つの から、進む向きの違う 2 つの操作が出てきます。
以下では押し出しを定義から座標表示まで書き下し、ベクトル場には押し出しが効かないことを例で確かめ、引き戻しがなぜ制限なしに働くのかまで扱います[1]。
接ベクトルは関数を微分する道具
接ベクトルを矢印だと思っていると、微分写像の定義は唐突に見えます。矢印をどこへ運ぶのか、という話に読めてしまうため。
多様体の接ベクトルは、点 のまわりの滑らかな関数に作用する微分作用素として定義されます。 は関数 を受けとって実数 を返し、ライプニッツ則 を満たすもの。
この見方をとると、微分写像の定義は「関数を先に運ぶ」という一行で書けます。矢印そのものを運ぶ方法を考える必要がありません。
多様体には外側の空間がないので、矢印を「そのまま平行に持っていく」という操作が使えません。関数への作用に言い直しておくと、この困りごとが消えます。
押し出しの定義
滑らかな写像 と点 に対し、微分写像
を次で定めます。 と、 の近傍で定義された滑らかな関数 に対して
とする。右辺の は の近傍の関数なので、 がそのまま作用できます。
この を押し出しとも呼び、、、 とも書きます[3]。呼び名も記号も文献で分かれますが、指しているものは同じ対象です。
作用の結果がふたたび微分作用素になることは、 の線型性とライプニッツ則からそのまま出ます。 と の積を入れて展開すれば、 での値が前に出てくる形になる。
定義が関数の合成になる理由
の上の関数 は、 を使えば の上の関数 に引き戻せます。関数はいつでも逆向きに運べる。
いっぽう接ベクトル は の点に住んでいるので、 の上の関数にしか作用できません。そこで をさきに 側へ連れてきてから作用させます。
つまり定義は、関数の逆向きの移動をはさんで、接ベクトルを順向きに送る形をしています。この二段構えが、押し出しと引き戻しの関係の原型になる。
関数 を から へ引き戻す
側で接ベクトルを作用させる
結果を 側の接ベクトルとして読む
真ん中の一歩だけが接ベクトルの仕事で、両端は関数の移動です。定義に が 1 回しか現れないのは、この構造から。
曲線で見ると押し出しは像の速度
接ベクトルを曲線の速度として定義する流儀では、押し出しはもっと直接に読めます。
を 、 となる曲線とすると
が成り立ちます。曲線を で送り、その像の速度をとる。それだけです[5]。
2 つの定義が一致することは、合成関数の微分から出ます。 を で計算すると、どちらの流儀でも同じ値になる。
曲線のとり方は 1 通りではありませんが、結果は だけで決まります。同じ速度を持つ曲線なら、像の速度も一致する。
例:円を 2 乗写像で送る
で半径 の円を送ってみます。
点が円周を 1 周するあいだに、像は 2 周します。速度ベクトルも 2 倍の速さで回る。
長さも変わります。 に対して像の速度は で、 倍に伸びている。押し出しは長さも角度も保ちません。
保つのは線型構造だけです。和とスカラー倍を壊さない、というところまでが の役目。
座標で書くとヤコビ行列になる
の局所座標を 、 の局所座標を とし、 を と表します。
基底ベクトルの行き先は次のようになります。
つまり の行列表示はヤコビ行列そのものです[1,3]。多様体の言葉に着替えても、手を動かす中身は多変数の微分積分と変わりません。
一般の接ベクトル に対しては、成分が
と出ます。添字 について和をとる。上の添字と下の添字が 1 つずつ潰れる形です。
座標をとり替えると も基底も変わりますが、写像 自体は変わりません。行列は表示であって、本体ではない。
例:極座標から直交座標へ
のヤコビ行列を書き下します。
は 方向の単位ベクトルへ、 は長さ の接方向ベクトルへ送られます。
行列式は です。 では階数が に落ち、押し出しは単射でなくなる。原点で極座標が壊れるとは、この 1 点のこと。
方向の基底が原点で潰れるのは、原点では角度が意味を持たないから。座標の欠陥が、微分の階数として目に見える形で出ています。
例:らせんを平面へ落とす
を のらせんとし、 を平面への射影とします。
で、押し出すと になります。 成分がそのまま落ちる。
長さは から へ縮みます。らせんを真上から見たら円になる、という当たり前の事実が、押し出しの言葉で書かれた形。
この は沈め込みです。どの点でもヤコビ行列の階数が で、 は全射になる。
例:球面のパラメータ表示
を の上で考えます。
の像は経線方向の単位ベクトル、 の像は緯線方向で長さ のベクトルです。
2 本は直交します。ヤコビ行列の列が直交するので、 は極から離れたところでははめ込み。
で となり、 の像が潰れます。北極が特異点に見えるのは、球面ではなく座標の側の事情です。
格子の像で読むヤコビ行列
で、直交する格子がどう送られるかを描きます。
格子は曲がりますが、交点での交わり方は直角のままです。ヤコビ行列が回転と拡大の合成になっているため。
行列 は、 と で書かれた回転拡大行列の形をしています。そのため角度を変えずに全体を伸ばす。
例:2 乗写像が角度を保つ理由
複素数で書けば で、微分は の掛け算です。複素数の掛け算は回転と拡大なので、角度が保たれる。
角度を保つ写像を等角写像と呼びます。正則関数の微分が複素数 1 個の掛け算になることが、そのまま幾何の性質になっている例。
原点だけは例外です。 で微分が になり、角度は 2 倍に開きます。ここでも階数の落ちる点が特異な振る舞いを引き起こしている。
連鎖律は合成の押し出し
写像を 2 つ続けたときの押し出しは、押し出しを 2 つ続けたものに一致します。
これが連鎖律です[4,5]。定義に戻れば一行で出ます。 と 側の関数 に対し、左辺は で、右辺も同じ式になる。
接空間をとる操作と押し出しをとる操作を合わせると、圏の言葉でいう関手になります。多様体と滑らかな写像を、ベクトル空間と線型写像へ移す仕組み[5]。
例:連鎖律を 2 通りで計算する
、 とします。合成は で定数。
直接微分すれば です。連鎖律で計算しても、 に を入れて
となり、合います。円周上で半径の 2 乗が変わらない事実を、接ベクトルの言葉が拾っている。
例:微分同相の逆は逆の微分
が微分同相なら です。両辺を押し出すと
となります。 は同型で、逆行列が逆写像の微分。
たとえば なら 、 の微分は です。 を入れれば積が になる。
押し出しはベクトル場には効かない
ここまでは 1 点での話でした。各点にベクトルを配ったベクトル場を、 で送れるかを考えます。
の点 に配るベクトルを決めたいのですが、 の逆像 が 2 点以上あると、それぞれから違うベクトルが飛んできます。どれを採るかを決める根拠がない。
逆像が空なら、そもそも何も飛んできません。押し出しは点ごとには常に定義できても、場としては定義できないわけです[2]。
が常に定まる。写像の階数も、逆写像の有無も要らない。
が微分同相でないと定まらない。逆像が 2 点以上なら行き先が割れ、空なら決まらない。
この非対称が、微分幾何でベクトル場より微分形式のほうが扱いやすい理由になります。
例:行き先が 2 つに割れる
を とし、 上のベクトル場を とします。
の逆像は と の 2 点です。押し出すとそれぞれ と になる。
同じ点に、向きの逆なベクトルが 2 本届きます。どちらを でのベクトルにするかを決められません。
例:行き先が空になる
同じ で を見ると、逆像は空集合です。押し出しで値を決める材料がない。
像の外では何も決まらず、像の中では割れる。この 2 つが同時に起きるので、押し出しは場としては働きません。
関連という言い方
押し出せないなら、押し出せている状況のほうに名前を付ける手があります。
のベクトル場 と のベクトル場 が、すべての で を満たすとき、 と は 関連であるといいます[1]。
が全射で、逆像の上で が のとり方によらないとき、 は射影可能であるといい、押し出したベクトル場がただ 1 つ定まります。
逆像の各点から飛んでくるベクトルが、全部そろっているという条件。
微分同相なら射影可能性は自動で満たされます。逆像が 1 点しかないため。
関連なベクトル場どうしは、リー括弧をとっても 関連のままです。押し出せる状況では、代数の構造ごと運べる。
例:回転で関連するベクトル場
で平面を空間の 平面へ埋め込みます。平面上の を考える。
空間側で をとれば、 が成り立ちます。 と は 関連。
いっぽう に を足したものは、 関連になりません。像の外へ出る成分は、平面側の からは作れない。
引き戻しの定義
余接ベクトルには逆向きの操作が定まります。 に対し
とおくと、 が決まります。これを引き戻しといいます。
定義に を代入しているだけなので、 の階数も逆写像も要りません。 が使える限り、いつでも定まる。
引き戻しに逆写像が要らない理由
引き戻しが素直に働くのは、 の点 を先に決められるからです。 を決めれば行き先 は 1 つに決まり、そこから を持ってくればよい。
押し出しでは逆に、 の点を決めても 側の点が 1 つに決まりません。写像の向きと、値を決めたい向きがそろっているかどうかの違いです[6]。
写像は 1 本しかないのに、荷物は両方向に流れます。流れる向きが物によって違う、というところが要。
例: を極座標へ引き戻す
で、 側の 形式 を引き戻します。
なので
となります。全微分をとる操作と同じ形。同様に です。
一般に が定義から出ます。座標関数を合成してから微分する、と読めば覚えることは何もありません。
例:球面へ を引き戻す
さきの で を引き戻します。
なので です。 の項が消える。
緯線に沿って動いても高さが変わらないことを、この形が言っています。引き戻した形は、球面の側の座標だけで書かれる。
引き戻しを 形式へ広げる
上の 次微分形式 に対し、 上の 次形式 を
で定めます。引数を全部押し出してから に食わせる。
最後の行で と の順が入れ替わります。引き戻しは向きを逆にする対応なので、合成の順も逆になる。
形式すなわち関数の引き戻しは です。この場合だけは、いちばん最初に出てきた合成そのもの。
例:面積形式を極座標へ引き戻す
を極座標の で引き戻します。さきに求めた 2 本を掛け合わせる。
と を使うと、 が残って
になります。重積分の変数変換に出てくる は、この引き戻しが吐き出したヤコビアン。
例:球面の面積形式
球面のパラメータ表示で を引き戻すと になります。 次元の側に 次形式は置けないため。
代わりに を引き戻すと が出ます。
これが球面の面積形式で、積分すれば になります。 の重みは、緯線が極に近づくほど短くなることを表している。
引き戻しは外微分と交換する
は、引き戻しの性質のなかでいちばんよく使われます[2]。
これが成り立つおかげで、 は閉形式を閉形式へ、完全形式を完全形式へ送ります。ド・ラームコホモロジーに写像が誘導されるのも、この一行から。
例:交換を 2 変数で確かめる
とし、 をとります。
先に外微分すると で、引き戻すと となり、整理して です。
先に引き戻すと で、外微分すると となり、やはり になります。合いました。
例:閉形式が閉形式へ移る
の上の は閉形式で、完全ではありません。
で引き戻すと になります。 次元では 形式が なので、閉であることは自動。
円周にそって積分すれば です。 が完全でないことが、この積分が にならないことに現れている。
を とするとき、 が沈め込みでない点はどこか。
- 点はない
- 原点だけ
- 単位円の上のすべての点
- すべての点
階数で写像を分類する
の階数を見ると、写像の局所的な形が決まります。
各点で が単射。 が要ります。局所的には を の座標平面として置く形になる。
各点で が全射。 が要ります。局所的には座標の一部を落とす射影の形。
が全単射で、 と がともに滑らか。各点で は同型になります。
はめ込みは単射とは限りません。微分の階数は各点で見る量なので、離れた 2 点が同じ像を持つことを止められない。
例:8 の字はめ込み
、 を考えます。速度は で、どの でも零ベクトルになりません。
したがって ははめ込みです。ところが の像は原点で、 と の極限も原点に近づく。
像は 8 の字を描き、中央で自分と交わります。はめ込みであることと、像がきれいな部分多様体になることは別の話。
例:ホップ写像は沈め込み
のホップ写像は、どの点でも微分が全射です。 次元から 次元への沈め込み。
逆像はどの点でも円になります。沈め込みの逆像が 次元の部分多様体になる、という一般の事実の例。
球面を円で埋め尽くす分解が、この写像 1 本から出てきます。押し出しの階数だけを見て、大域的な構造が読める場面。
逆関数定理は局所のことしか言わない
が同型であれば、 のある近傍で は微分同相になります。これが多様体版の逆関数定理です[4]。
大域的な性質は言いません。さきの は原点を除いて が同型ですが、全体では 2 対 1 の写像。
局所で決まることと大域で決まることを分ける線が、ここに引かれています。微分は局所の道具なので、大域の情報は原理的に届かない。
定数階数定理まで見ておく
はめ込みと沈め込みは、階数が最大の場合です。階数が最大でなくても、各点で同じ値なら似た結論が出ます。
定数階数定理は、階数が で一定なら適当な座標で と書けることを言います。
階数が一定でない写像には、この形が使えません。階数が飛ぶ点のまわりでは、局所の形が一定に定まらない。












dF=(2x, 2y) は原点でだけ零になります。ほかの点では階数 1 で全射なので、沈め込みが崩れるのは原点の 1 点だけ。