ホイッグ党:イギリス民主主義の礎を築いた政治勢力の180年史

ホイッグ党は17世紀後半から19世紀中期にかけてイギリスで活動した政党で、現在の自由党(Liberal Party)の前身となった重要な政治勢力です。

ホイッグ党の起源と名称

ホイッグ(Whig)という名称は、もともとスコットランドの反政府的な長老派教徒を指す軽蔑的な呼び名「ホイッガモア」に由来します。1679年の王位継承危機の際、カトリック教徒であるヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の王位継承に反対する議会派がこの名で呼ばれるようになりました。

1679年の王位継承危機

カトリック排斥法案をめぐる対立

ホイッグ(継承反対派)とトーリー(継承賛成派)の分裂

二大政党制の基礎形成

基本的な政治理念

ホイッグ党は議会主義と立憲君主制を重視し、国王の権力を制限して議会の権限を強化することを主張しました。

議会主権の確立

国王といえども議会制定法に従うべきであり、議会が国政の最高決定機関であるとする考え方を推進しました。

宗教的寛容

カトリック教徒への迫害に反対し、プロテスタント諸派に対する宗教的寛容を支持しました。特に非国教徒の市民権拡大を advocated しました。

商工業の発展支援

貿易の自由化と商工業の発展を重視し、重商主義的政策よりも自由な経済活動を支持する傾向がありました。

個人の権利保護

ジョン・ロックの自然権思想の影響を受け、個人の生命、自由、財産の権利を政府が保護すべきとする考え方を採用しました。

名誉革命における役割

1688年の名誉革命では、ホイッグ党が中心的な役割を果たしました。

1688年6月
ジェームズ2世の男児誕生

カトリック王朝の永続化への懸念が高まり、ホイッグ党を中心とする貴族たちがオラニエ公ウィレムに招請状を送付。

1688年11月
ウィレム上陸

オラニエ公ウィレム(後のウィリアム3世)がイングランドに上陸し、ジェームズ2世が国外逃亡。

1689年2月
権利章典制定

議会がウィリアム3世とメアリー2世を共同統治者として認定し、同時に王権を制限する権利章典を制定。ホイッグ党の議会主権理念が実現。

18世紀の政治的展開

18世紀を通じて、ホイッグ党は長期にわたって政権を担当し、イギリスの政治制度を安定させました。

特にロバート・ウォルポールは1721年から1742年まで21年間にわたって首相を務め、責任内閣制の基礎を築きました。

国王に対してではなく議会に対して責任を負う内閣制度の確立。

この時期のホイッグ党政権下では、商業と金融業が大きく発展し、イングランド銀行の設立(1694年)や国債制度の整備が行われました。また、スコットランドとの合同(1707年)も実現され、グレートブリテン王国が成立しています。

アメリカ独立戦争への対応

1770年代のアメリカ独立戦争では、ホイッグ党内で意見が分裂しました。

政府派ホイッグ

ノース卿の強硬政策を支持し、アメリカ植民地に対する課税権を主張。植民地の反乱を武力で鎮圧すべきとの立場。

野党ホイッグ

チャールズ・ジェームズ・フォックスらが率い、アメリカ植民地の要求に理解を示し、「代表なくして課税なし」の原則を支持。戦争継続に反対。

19世紀の改革と自由党への転換

19世紀に入ると、ホイッグ党は社会改革に積極的に取り組むようになりました。

1832
第一次選挙法改正

グレイ伯爵率いるホイッグ党政権が産業革命で台頭した中産階級に選挙権を拡大。有権者数が約2倍に増加。

1833
奴隷制廃止法

大英帝国全域で奴隷制度を廃止。ホイッグ党の人道主義的理念の実現。

1846
穀物法廃止

ロバート・ピール率いる保守党政権が実施したが、ホイッグ党も自由貿易を支持。

1859
自由党結成

パーマストン子爵を中心として、ホイッグ党、ピール派、急進派が合流して自由党を結成。ホイッグ党としては消滅。