ジェームズ2世:名誉革命で追放されたカトリック王
ジェームズ 2 世(1633-1701)は、カトリックへの改宗によって国民の信頼を失い、名誉革命で王位を追われたイングランド最後のカトリック王です。わずか 3 年の治世は、イギリス立憲政治の確立に向けた重要な転換点となりました。
カトリックへの改宗
ジェームズはチャールズ 1 世の次男として生まれました。清教徒革命中は母や兄とともに大陸に亡命し、フランス宮廷で過ごしています。この時期にカトリックに傾倒し始めたと考えられています。
1660 年の王政復古後、兄チャールズ 2 世のもとで海軍卿として活躍しました。しかし 1670 年代に入ると、ジェームズのカトリック改宗が公然の秘密となります。
公職就任者にイングランド国教会への忠誠を誓わせる法律。ジェームズはこれにより海軍卿を辞任せざるを得なくなりました。
ジェームズを王位継承から排除しようとする法案が議会に提出されました。ホイッグ党はこれを支持し、トーリー党は反対。結局、法案は否決されました。
1685 年、チャールズ 2 世が嫡子なく死去し、ジェームズは 52 歳でイングランド王に即位しました。
急進的なカトリック政策
即位したジェームズ 2 世は、カトリック復権を急ぎすぎました。プロテスタントが圧倒的多数を占めるイングランドで、彼の政策は危険な賭けでした。
カトリック教徒を軍や政府の要職に任命した
審査法を停止し、カトリックの公職就任を可能にした
信仰自由宣言を発布し、カトリックの礼拝を公認した
議会や国教会の反発は強まる一方でしたが、ジェームズには一つの「安心材料」がありました。彼の後継者である娘メアリーとアンは、どちらもプロテスタントとして育てられていたのです。国民は「ジェームズの治世さえ我慢すれば、次はプロテスタントの王が即位する」と考えていました。
男子誕生という衝撃
1688 年 6 月、状況は一変します。ジェームズの 2 番目の妻メアリー・オブ・モデナが男子を出産したのです。
ジェームズの死後はプロテスタントのメアリー王女が継承する予定だった
カトリックとして育てられる王子が王位継承者となり、カトリック王朝が永続する可能性が生まれた
この知らせはプロテスタント勢力に衝撃を与えました。「王子は偽物で、こっそり宮殿に持ち込まれた」という陰謀論まで広まります。
名誉革命と亡命
危機感を抱いた有力貴族たちは、オランダ総督でありメアリー王女の夫であるウィレム 3 世(ウィリアム)に密書を送り、イングランドへの介入を要請しました。
1688 年 11 月、ウィリアムは大軍を率いてイングランドに上陸します。ジェームズは軍を集めて迎え撃とうとしましたが、将軍たちが次々と寝返り、娘のアン王女さえも敵側についてしまいました。
オランダ軍がイングランド南西部に上陸。ジェームズの軍は戦わずして崩壊しました。
ジェームズはロンドンを脱出し、フランスへ逃れました。途中で一度捕らえられましたが、ウィリアム側が黙認する形で亡命に成功します。
議会はジェームズの亡命を「退位」とみなし、ウィリアム 3 世とメアリー 2 世を共同君主として迎えました。
復位の試みと晩年
ジェームズはルイ 14 世の保護のもと、フランスのサン=ジェルマン=アン=レーで亡命宮廷を開きました。1689 年にはアイルランドに上陸して復位を試みますが、ボイン川の戦いでウィリアム軍に敗北。以後は二度とイギリスの地を踏むことなく、1701 年にフランスで亡くなりました。
ジェームズ 2 世の追放は「名誉革命」と呼ばれ、流血なき革命として称えられています。この出来事により権利章典が制定され、議会主権と立憲君主制というイギリス政治の基本原則が確立されたのです。