サッチャー革命:イギリス経済の大転換
マーガレット・サッチャー(1925-2013)は、1979 年から 1990 年まで首相を務め、イギリスの経済と社会を根本から変革しました。「鉄の女」と呼ばれた彼女の政策は「サッチャリズム」として知られ、その影響は今日まで続いています。
「英国病」からの脱却
1970 年代のイギリスは深刻な経済危機に陥っていました。「英国病」と呼ばれた停滞の時代です。
1975 年には年間インフレ率が 24% を超えました。物価上昇に賃金が追いつかず、国民生活は苦しくなる一方でした。
強力な労働組合がストライキを繰り返し、経済活動が麻痺することもしばしば。1978-79 年の「不満の冬」では、ゴミ収集員や墓掘り人までストに入り、社会は混乱しました。
鉄道、鉄鋼、石炭、自動車など多くの基幹産業が国有化されていましたが、競争原理が働かず、赤字と非効率が常態化していました。
1979 年 5 月、サッチャーは総選挙で勝利し、イギリス史上初の女性首相となりました。彼女は就任演説で聖フランチェスコの祈りを引用し、「不和あるところに調和を」と述べましたが、実際に待っていたのは激しい対立の日々でした。
サッチャリズムの柱
サッチャーの経済政策は、戦後イギリスの合意政治を根本から覆すものでした。
国有企業の民営化を進め、市場競争を導入した
労働組合の力を法的に制限し、ストライキを困難にした
規制緩和と減税で企業活動を活性化させた
社会保障を削減し、「小さな政府」を目指した
特に象徴的だったのが、1984-85 年の炭鉱ストライキとの対決です。全国炭鉱労働組合のアーサー・スカーギル委員長が率いるストライキは 1 年近く続きましたが、サッチャーは一歩も譲りませんでした。ストライキは最終的に組合側の敗北に終わり、労働組合の政治力は決定的に低下しました。
民営化の波
サッチャー政権下で、多くの国有企業が民営化されました。
電話事業の民営化は、サッチャー改革の象徴的存在となりました。株式は一般市民にも販売され、「株主民主主義」の理念が広まります。
「シドに教えてやれ」という広告キャンペーンが話題に。民営化株の購入が国民的関心事となりました。
国営航空会社が民間企業となり、その後「世界で最も好まれる航空会社」を目指す積極経営に転じました。
民営化は効率化と競争をもたらした一方で、サービスの質の低下や公共性の喪失を招いたという批判もあります。
社会の分断
サッチャー改革は、イギリス社会に深い分断をもたらしました。
金融業界、南部イングランド、起業家、住宅所有者など。ロンドンのシティは「ビッグバン」と呼ばれる金融自由化で国際金融センターとしての地位を確立した。
製造業労働者、北部イングランド、スコットランド、ウェールズの旧工業地帯。炭鉱や製鉄所の閉鎖で失業者が急増し、地域社会が崩壊した。
サッチャーは「社会などというものは存在しない。あるのは個人と家族だけだ」と述べ、集団主義的な福祉国家の考え方を否定しました。この発言は彼女の哲学を象徴するものとして、今も議論を呼んでいます。
外交と国際的影響
サッチャーはアメリカのレーガン大統領と「特別な関係」を築き、冷戦終結に向けた西側の結束を主導しました。
1982 年のフォークランド紛争では、アルゼンチンに占領されたフォークランド諸島を奪還するために軍を派遣。短期間で勝利を収め、国内での支持を固めました。この軍事的勝利がなければ、サッチャーの長期政権は実現しなかったかもしれません。
一方、ヨーロッパ統合に対しては懐疑的で、欧州共同体への権限移譲に強く反対しました。この姿勢は後のイギリスのEU離脱(ブレグジット)にもつながる保守派の伝統となっています。
退陣とその後
1990 年、人頭税(コミュニティ・チャージ)をめぐる国民の反発と党内の反乱により、サッチャーは辞任に追い込まれました。11 年半の在任期間は、20 世紀のイギリス首相として最長でした。
サッチャーの評価は今も二分されています。「イギリス経済を再生させた救世主」という称賛と、「社会を分断し格差を拡大させた破壊者」という批判が共存しています。しかし、彼女がイギリスの戦後合意を終わらせ、新自由主義の時代を開いたことは疑いありません。その影響は、労働党のブレア政権(1997-2007)でさえサッチャーの基本路線を踏襲したことからも明らかです。