アン女王とイギリス・スコットランド合同(1707年)
アン女王(1665-1714)は、ステュアート朝最後の君主であり、イングランドとスコットランドを統合して「グレートブリテン王国」を誕生させた女王です。17 回の妊娠にもかかわらず成人した子どもがいなかったため、彼女の死後、王位はドイツのハノーヴァー家に移ることになりました。
ステュアート朝最後の女王
アンはジェームズ 2 世の次女として生まれました。父と異なりプロテスタントとして育てられ、デンマーク王子ジョージと結婚します。
名誉革命後、姉メアリーとその夫ウィリアム 3 世が共同統治者となりました。アンと姉の関係は複雑で、しばしば対立しました。
幼少期からの親友サラ・チャーチル(マールバラ公爵夫人)はアンに絶大な影響力を持ちました。この関係は後に破綻します。
1702 年、ウィリアム 3 世が落馬事故で死去し、アンはイングランド・スコットランド・アイルランドの女王に即位しました。37 歳のことです。
合同法の成立
アンの治世で最も重要な出来事は、1707 年のイングランドとスコットランドの合同でした。両国は 1603 年以来、同じ君主を戴きながらも別々の王国として存続していました。
イングランド王国とスコットランド王国は別の議会、別の法律を持つ独立国家。君主だけが共通だった。
単一の「グレートブリテン王国」となり、ウェストミンスターに統一議会が置かれた。
なぜこの時期に合同が実現したのでしょうか。背景には複数の要因がありました。
アンに後継者がいないため、ハノーヴァー家への王位継承を両国で統一する必要があった
スコットランドの経済危機(ダリエン計画の失敗)で、イングランドとの経済統合が魅力的に映った
イングランドはスコットランドがフランスと結ぶことを恐れ、合同を望んだ
1707 年 5 月 1 日、合同法が発効し、グレートブリテン王国が誕生しました。スコットランド議会は解散され、スコットランド選出の議員がウェストミンスター議会に加わることになります。
スペイン継承戦争
アンの治世は、ヨーロッパ大陸でのスペイン継承戦争(1701-1714)と重なっています。この戦争でイギリス軍を率いて活躍したのが、サラ・チャーチルの夫マールバラ公ジョン・チャーチルでした。
マールバラ公がフランス・バイエルン連合軍に大勝。イギリス陸軍史上最大の勝利の一つとされています。
マールバラ公が再びフランス軍を破り、スペイン領ネーデルラントの大部分を制圧しました。
戦争終結。イギリスはジブラルタル、ミノルカ島、北米植民地の一部を獲得しました。
マールバラ公の軍事的成功はイギリスの国際的地位を高めましたが、戦争の長期化と費用増大に対する批判も高まっていきました。
女王の孤独と最期
アンは 17 回妊娠しましたが、流産や死産が相次ぎ、成人まで生き残った子どもは一人もいませんでした。唯一 11 歳まで育ったグロスター公ウィリアムも 1700 年に病死しています。
親友サラ・チャーチルとの関係も悪化し、1711 年にはサラを宮廷から追放。代わってアビゲイル・マシャムが女王の寵愛を受けるようになりました。
1714 年 8 月 1 日、アン女王は 49 歳で崩御しました。後継者がいなかったため、1701 年王位継承法に基づいてドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルクがジョージ 1 世として即位します。ここにステュアート朝は終わり、ハノーヴァー朝が始まったのです。
アン女王の治世は、グレートブリテン王国の成立という歴史的偉業で記憶されています。彼女自身は控えめな性格で、政治は閣僚に任せることが多かったものの、その時代はイギリスが世界の大国へと躍進する重要な転換期でした。